世界の収容所化、象徴界の失調が明白となった現在、より過酷な現実への逃避が生じており、演劇=芸術=虚構はもはや不可能という地点で我々は思考するしかない。スペクタクル資本主義、美と政治のショートが生の境界を侵犯しており、新たな美的/政治的空間の創出は現実への逃避を加速させる一時の熱狂へ人々を誘導しかねないのだ。近代芸術が捏造されて以来、現実政治による美の利用はあくまでも特殊事例と認識され、虚構世界でのポイエーシスを本質とする芸術と政治は無関係と捉えられてきた。だが政治は人為的決定によって無から暴力的に共同体の枠と象徴界を創出し続ける高度に虚構的営為であり、ポイエーシスという源泉を芸術と共有している。こうした芸術と(資本主義)政治の通底性を両者が抑圧してきた物質性の残余を追求することで再び見つめる必要があるのかもしれない。そうしてせめて熱狂と共に芸術が持つ解放と覚醒への誘惑にも抵抗してみるのだ。
2005年10月23日(日)PM4:00
麻布die pratze(東京)
引用テクスト:ピエール・クロソウスキー「生きた貨幣」
構成/演出/装置:清水唯史
出演/スタッフ:湯田康 葛巻欣久 田中紀子
竹原洋平 清水基 長野れい子
黒沼雄太 宮下直紀
松永翔 中西B ほか
協力:批評誌クアトロガトス 真島大栄