1993年11月
聴くものの眼 〜 クアトロ・ガトス“t,a-blanc”より
浜島嘉幸(身休表現)
七ッ寺共同スタジオ(名古屋)での“t,a-blanc”の上演のとき私は客席の舞台寄り前のほうに座っていた。それで、クアトロ・ガトスの俳優が全員客席の横の通路から入ってきたとき、私自身右横を向かなければならなかった。舞台外の劇場の黒い壁面はガムテープの貼り残しや消火器の所在位置を示すランプなどが舞台照明のあかりで粗い凹凸を見せていた。舞台に上る直前、俳優たちは舞台のほうに顔を向けながら腰のポシェットに手を伸ばし、ポシェットのジッパーを開け、なかのテープレコーダーのスイッチを入れた。上演の開始時、上演の時間・空間の規定を明示するように上演の一部としてスイッチを入れる動作と俳優の身体が提示されるが、それを見るために私は真横に首をひねるか体を横に回さなければならなかった。その横とは舞台の明かるみに向けられた俳優の顔と黒いポシェットに差し込まれた手とかいま見えた小さな機械の一部、そのすぐ後ろの舞台装置化されていない劇場の壁面などが構成している粗面である。観客の身体の一部もそれに加わっていたと思う。
(t).客席の中央少し後ろ寄りに数本のスタンドが立てられている。そのうえの照明灯体は舞台を一様に明るくしていた。一方、舞台上の後方には巨大な一枚の白い板が天井のバーから吊されている。舞台左右にも同じような白い板があるが、これらは固定されているようだ。スタンドの灯体は舞台の全体を照明しているように見えたが、舞台後方の白板に当てられているようにも思われる。舞台上に直立する三面の平面は白いので照明の光は十分に反射され散乱しているようだった。客席に座ると、スタンドの上の灯体の高さがよく見える。それはほぼ空中にある。ところで、それとは別に客席の最後部の左右の端寄りに二つのスタンドがあり、その上のスライド・プロジェクターは三つの白板にスヌケの光を投射していた。このスライドの四角い投射光は中央の板に集約されていずに左右の板にも係っている。つまり、投射光は折れ曲がっていた。映像の駒は入っていないので、距離によるピントのばけは介在していない。たぶん、このスライド投影は一種のフェイクである。
(,a).舞台上、客席との境目に六つの低い台があり、その上に灯体が六つ置かれている。灯体の照明先は客席であるが、これらの灯体はつぎに俳優が肩からさげ携行するための金具が取りつけられていた。これらの灯体によって床のリノリウムの裏に貼付されたテクストを俳優が読んでいくことになる。六つの灯体が台(ポッド)上にあるとき、舞台を照明するスタンドの光線と客席に向けられた光線はいくぶん交差しながらぶつかっていた。ぶつかっているところは観客にとっては空中である。相い対する二つの方向の光線が交差をなし、一部は空中で衝突して帯状に面をなしているとも思われる。相互の交差と面的な衝突のどちらに重点があるのか定まらないが、イリュージョナルな面的衝突は舞台と客席の境界線ではなしに、客席エリアの中それも空中にずれ込んでいるようだった。その上、この粗面は下方が傾斜しているはずだった。スタンドの高さから降りる光と、ポッド上からの照明光は当然傾いた面でぷつかるはずだ。スタンドの灯体の列とポッド上の灯体の列とがずれた括弧をなしているとすれば、交差の大きな括弧の片割れとこのずれた括弧が相面となって隣接しているとも思われた。ストレートな列状だが上下にずれた括弧と、舞台方向で折れた照明光線の片側の括弧、それに折れ曲がったフェイクのスライド投射が三面の白板に中途半端に貼り付いた括弧を加えるならば、どこかしら不在のかたちを伺うこともできる。
(-).六人の俳優は肩から灯体を携行してあとずさりしていく。二人ずつ三組に分かれたパフォーマーたちはそれぞれ床に伸びたリノリウムの裏のテクストを読み、読まれたテクストの音声を受信するラジオを灯体の上にさらに積んで携行しながら受信アンテナを操作し、あるいはダンス風の一連の動作を反復した。後退りするのは所定の位置につくためではなく、数をかぞえるためである。でなければ、引き下がる時に不用意な意味の身体性が立ち上がるだろう。パフォーマーがリノリウムを巻ながら読むテクストは腰のポシェットのレコーダーから来るテクストと対照的であった。後者は一種のプロンプターであるために観客には知られない。反復されるダンス風の所作は直線的な切れ味のよいものである。急速な角度と加速度がついているのも弛緩する時の身体牲をできるだけ払拭するためである。これを鉛直方向に連用すると直下に床面に倒れる所作も頷ける。今回の構成にはこの倒れる所作は省かれていた。そのかわり、パフォーマーは読まれたリノリウムの下に真っ直ぐうつ伏せたりする。ダンス風の所作の場面からうつ伏せたりする場面までの時間の伸びが設定されているとも思われた。倒れるときに、テクストを読むことと共に動作のセリ一に句読点が打たれる。が、パフォーマーは倒れた後再び鉛直に立ち上がるのでなく、横に転がって出た。
(b).俳優の携行する灯体には超小型のメトロノームが留められていた。このメトロノームは常時2〜3秒の間隔で音を発している。一方、アンテナを伸ばしたラジオは不格好に大きく、リノリウムの芯のトランスミッターが拾ったテクストを読む俳優の音声を不均等に再受信している。二つの発信形態・受信形態は対照的で、空間内に併存しているように思われた。巻くことで読まれるテクストの声は巻いたリノリウムの芯になっているトランスミッターに受信されるまでに屈折ないしは摩滅し、その後発信された音声は空中へと放散し、いわば痕跡化して俳優の携行するラジオに切れ切れにキャッチされる。この空中の音声の機械による可聴性と超小型のメトロノームの刻むデジタル音の可聴性は性格的に反立するものなのだろう。それらが相補的ではないとすると、「聴かないことの不可能性」は、併存しているために、聴くことの可能性であるアンテナよりも微小なメトロノームの音に代表されていき、その上でこの小器官が「聞くこと」の上演の再呼び出しに照合されてもいるように思われた。だが、リノリウムの芯のトランスミッターが実際はただの空洞の筒だとしたら、不格好なラジオの「聞いている」音声は別の音源に依っていることになる。
(l).舞台上のひとの身体が歩いたり走ったりすることは別段必要なことではない。舞台上の身体はまず置かれる以上、まず置かれていくだけでいい。とすれば、置かれていくのは例えばただの点でもよく、あるいは棒でもよいことであるだろう。だが、それでも舞台上にはやはりひとがいることなのだろう。ひとと身体を分けるとそこに無意識が措定されるようにも思われる。以前に見たクアトロ・ガトスの上演では発泡スチロールのオブジェや垂直な棒状のポールが一定の順序にしたがって置かれていくことが構成の骨子になっていた。今回の上演では置かれているものは多種に渡り、多種の引用と応答に渡る。俳優がそこから登退場する舞台の袖が封じられているので、装置もひとの身体も終始置かれているけれども、以前のように置かれていくことがない。場面もまた反復的構成によって動作のセリーと装置の機能へと節約されていることにもよるのだろう。置かれていくことがないとすれば、それはどのようなことなのだろう。すべて呼び出されているわけなのだろうか。また、呼び出されること(vocable)とはその声とはなんなのだろうか。
(an).以前に見た上演では俳優がオブジェやポールを置いていったあとダンス風の動作がなされていたように思われるが、若干自信がない。ポールを置いていったあとダンス風の動作をすると見るのか、その逆なのかは反復の中では意味のあることなのだろうか。ポールを置いていったあと身体の振りがあるというのが自然のように私には思われるが、それは「引き下がる」ときの身体性と行為に伴う無意識の仮定のためにそう捉えてしまうようにも思われる。倒れることの必要性もまたそうである。「放置」が言われている以上通常使用されているようなスタイルの無意識的投射もそのとおりに布置してよいことではあるだろう。身体の振りには回転軸がつきものである。ダンスなどは特にそうだろう。身体の回転の枢軸が胸部中央なのか腰の付近なのか足の先手の先なのかですいぷん違った感じになると思われる。以前の上演に腰部の少し上あたりに振りの回転を見た。回転軸は一種の円筒であるが、視線が引き込まれ次々に傾斜しながら放散されるにはひねられて点のように収縮していなければならない。そこで内容物が射出されるようにも見え、集散点ともなる。この点となった軸をトポロジカルに折りたたんだり位置を変移させ物質面に放射したり外縁に張り出したりもできる。このような言い方は傾向的にすぎるだろう。要するにそのような枢軸というのは伝統的にシンボリックなものなのだ。今回の上演で俳優の携行する照明灯休はちょうどその枢軸を遮断する位置にあった。灯体の「眼」は大きいが、これを点と見れば、それ自身光る点というのは距離を測定しえないのである。それを携行するというのは俳優であるということだ。だがそれが、適切なことに、異様に大きいのである。その自身光る「眼」は周到にも不細工に大きいということである。
(c).舞台後方の大きな白い板面は観客の背後からのスライド投射に場所を貸している。この映写幕をフェイクしている板面は天井のバーに吊され前後に揺れるようになっていた。だが、わざわざ意味ありげに揺すったりはしない。俳優が床のリノリウムを「巻く」べく位置を取るときに偶然のように幕とも見える板面に俳優のからだが触れ、そのために板面が少し後ろに引き下がる。この瞬間に、見ようによってはやや目立って長くも思えるその瞬間にだけ俳優の腰の付近が不用意に装置に触れる。それはどうしても必要な動きであると同時に「無駄な」動作のようにも見えた。このとき鉛直に立った板面は後方に触れ、床面との間に隙間が開く。この間隙がテクストを読む行為への展延された偏異点だとすれば、この偏異点で板面には角度がつく。と同時に「被膜=非幕化」する。この角度が俳優の前進によって元に戻り「被膜」は「幕」化され、つまり巻きながらテキストを読むことへと転送されてもいる。リノリウムを巻くときにその中心に細長い円筒形の芯が差し込まれる。この芯は俳優がテクストを読む声を重層したリノリウムを通して受信し、返送する。この声の転送器自体が巻かれながら転送されてもいく。読まれる前の、あるいは読まれた後のテクストは読まれたテクストの音声を妨害し非均質化する。ノイズとなっているのは、読まれる前または後のテクストなのか、それとも読まれたテクストなのか、あるいはそのような操作全体の系なのか、巻き始めた刹那に上演のエレメントが立て込んでくるようにも思われた。この巻き物状のテクストの系は構成の新たな骨子であるはずなのだが繁雑な系にもしていると思われた。
〈もの〉に照明を当てることは、その〈もの〉によって照明を浴びることにもなるだろう。形骸化された〈もの〉であればこの事態を回避できるのだろうか。そうではなく、形骸化するという手続きあるいはその意志が事態を回折させ回避に導くような方途を照明するのではないだろうか。だが、現在性という照明の下で「現在的な意志のスタイル」を優れて持つようなとき、形骸化された〈もの〉とは現在牲という照明の中にあえて暗がりを作ることも考えられるだろう。それは白昼の暗がりだという比喩もかつて言われた。あるいはこの白昼こそ暗がりであると脅しがかけられもした。その暗がりで凶器の切っ先が突きつけられるのは、じつに、既にそうした暗がりの中にいるのが知られていないためであるとも説かれる。そのような一種のテロリズムは私には親しいものである。
クアトロ・ガトスでいう形骸化はその種のテロリズムとは無縁であるだろう。演出家・清水唯史のいう形骸化は照明の当たっている〈もの〉を主題として傾向化していないということだ。前景化しないというのはたぷんそういうことだ。また同時に、照明の当たっていないつまり「見えない」ものに傾向化することも拒絶するだろう。「見る」ことだけがあるのではなしに、見ないことはありえないのだ。だが、それでもまだ片手落ちなのだ。ないものもみえるというのが、アスペクションのあり方なのだから、あるものはあらしめなければならないが、あるということはじつはあるということ以外ではなくそれは見えるか見えないかとは無縁なのだ。それでもまだ不十分であるのかもしれない。あるということでは「見ない」ことを許容する。だから、「見る」ただなかにしか去来しないものは「ある」といわなければならない。それはいわば「見る」に読み込まれる「ある」という思考なのだろう。これが照明とは切断されているのは、「見る」に読む以上一種の「声」だからだ。それがなんと垢ぬけているかは、その「vocableの声」が明かるみや暗がりからやって来たのでなく、明るさへと向かい形骸化していく物質であることを望むからだ。
クアトロ・ガトスが「傍らに書かれたもの」に物質性を見い出し続けるのは、大文字の意味や物語が重層化した「主文」が重層化のために明かるみや暗がりをすでに沈殿させていて十分に重く暗いからであるのは言うまでもないだろう。「主文」を形骸化するというのは「主文」の物質性を変容させんがためである。いや、そうではないだろう。「主文」の重い物質性はもちろん偽造された物質性だったのである。だが、「偽造だ」とすることはもうひとつの偽造なのだ。存在への照合を意欲するものはもっとも困難な対立や矛盾を照らし出し、そこに調停という符牒の合致を見るか、対立と矛盾の裂け目じたいに圧倒的な意味牲を注ぎ込むだろう。また、用心しなければならないのは、「そうしないこと」の傾向化や前景化でもあるだろう。放置し反復するというのは、この両者を退け、いわば水平化するためである。それが正確に水平面となるとは私には思われないし、水平面に水平に描かれていくとも思われないが、きわめて親しい明るさをもって水平に展開されていくように思われるのは、「存在への照合」を切断してただ反復・放置されたり不安定さの定式化とでもいうような思考のマテリアリズムを要請したりする一種審美的なフォルマリズムが上にも下にも切り込まれないように感じられるからだろう。だが上にも下にもむかっていないとするのは間違っているだろう。上にも下にもまなざしを向けているからこそ水平に展開されるのだし「屈性の屈を取り除く」ように巻き開くことも提示される。逆説的に言えばクアトロ・ガトスは「存在への照合」の意欲をよく知っているのだし、抽象と具象、概念と基底を釈一しない明るさを時代と共に共有しながら、その上で垂直に貫かれることも感受しているのだとすれば、「水平性の上に垂直に書かれる」エクリチュールの凡庸性を微細に水平化するそれじたいは垂直な〈繊毛〉を読み取るべきなのだろう。並びなきものと並ぶことの狭間の不安定な気配からそれを伺うこともできるかもしれない。もちろん、そのような〈繊毛〉を表現してしまうことを忌避するエティカも持ち合わせていることなのだと思う。
豊島 ずらさないためには転倒するしかないということ?
つまり、私は水を飲むと言って水を飲まないとか、そういうこと?
清水 水を飲むと言って、まさに水を飲むわけです。
(『絶対演劇』リーフレットより)
・・・そこで、ふたりの俳優はテーブルの上のコップに手を伸ばして「水を飲む」。が、コップ
の中には水はない。水を飲むと言っていないのだから、コップの中に水はないわけである。
・・・ところで、このとき俳優が見ることができたのは、円筒形の透明なコップの内と外であっ
たのかもしれない。