2021年1月
「絵画/音楽」のコロス の報告
井澤賢隆(早稲田速記医療福祉専門学校非常勤講師/NHK学園講師/哲学)
「絵画/音楽」のコロス の報告(1)
昨年(2019年)の12/24(火)~12/27(金)まで、「絵画/音楽」のコロス と題する催しを千葉県市川市の木内ギャラリーで行いました。
これは私、井澤賢隆の所蔵する絵画等13点と画家吉松俊英の絵画作品を展示する中で、次の3つの催しを実施したものです。
1)「絵画」のコロス と題するパフォーマンス
2)「音楽」のコロス IZA:宮澤賢治「妹とし子への挽歌等」全13曲連弾唱
3)「音楽 コロス 宮澤賢治」をテーマにした放話、群話
「絵画/音楽」のコロス の報告(2)
今回の展示に当たっては、劇集団クアトロガトスの主宰者、清水唯史氏に助けていただきました。ありがとうございました。
「絵画/音楽」のコロス の報告(3)
●木内ギャラリーについて
千葉県市川市にある木内ギャラリーは、貴族院議員や京都府知事などを務めた木内重四郎(1865-1925)が大正の初めに建てた別邸を保存したものです。
『万葉集』ゆかりの「手児奈」の史跡を巡っていたときに、偶然出合いました。まさに「手児奈の森」の中にある情緒のある建物。手児奈に導かれたと実感しています。市川市が管理しているので、その使用は市川市民が優先、平日しか予約を取れませんでした。しかし、使用料もリーズナブルで、ここで催しが出来たことは幸いでした。
「絵画/音楽」のコロス の報告(4)
●この催しの主旨(パンフレットより)
コロスとはギリシャ悲劇において設定されていた「歌舞合唱隊」のことで、「コーラス(合唱)」の語源となっている言葉です。ニーチェが「ギリシャ悲劇の本質はドラマ(劇)ではなく、コロスである。」(『悲劇の誕生』)と述べているように、コロスのあり方は実にスリリングです。
コロスは円形の踊り場(オルケストラ)に登場し、劇の最後まで退場しません。そして、そこで歌舞しながら俳優ともやりとりし、観客をも先導します。つまり、コロスは進行する劇やそれを見る観客の外に立って、より高い永遠の次元から演じられる劇の深層を歌います。
このようなコロスは、アテネという都市国家(ポリス)に住む人々(デモス)のあるべき姿を暗示しながら、その共同体の結束(ファッショ)を固めていく役割を果たしていました。一方、コロスの持つこの超越性は、人々を全体主義(ファシズム)という衆愚へと導く可能性を秘めていたとも言えます。
現代の「演劇」には、このような「外部」としてのコロスはもはやありません。それは舞台装置や音響、ト書きやナレーションなどといったものによって「演劇」自体に内在化されてしまったと言ってもよいでしょう。この内在化によってコロスの持つ危険性を忘却した現代の「演劇」は、二重の顛倒の中に陥っていると考えられます。
翻って、「絵画」「彫刻」をはじめとする「美術」や 「音楽」などの「芸術(テクネー)」は、それらに対する観客席(テアトロン=シアターの語源)が設けられるとき、まさに「コロス的存在」になっているのではないでしょうか。しかも現代の「観客」はこの構造を無意識的に内面化し、テアトロンから舞台そしてその奥のストア(柱廊=店)にまで上がり込んで興奮あるいは落胆しています。観客が舞台に上がったとき、まさに「悲劇」が死を迎えたことは、ニーチェが指摘したとおりです。そして、その残滓として発生したものこそが、「哲学(学問)」でした。
端的に言って、ニーチェをベースにして私がこれまで何度も述べてきたこんな構造自体を、言語の限界とファシズムを自覚しながら、今回の企画で再び照らし出せれば、と考えています。
「絵画/音楽」のコロス の報告(5)
●「絵画」のコロス について(1)
期間中、12/25(水)14:00-15:00の時間において 「絵画」のコロス というパフォーマンスを行いました。これは私が演出・構成・出演をした初めての[絶対演劇]です。
・演出・構成 井澤賢隆 清水唯史(クアトロ ガトス)
・出演 宮下直紀(クアトロ ガトス) 森下貴史 IZA(井澤)
パンフレットに掲げた惹句は2つ、
「ギリシャ悲劇の本質はドラマではなく、コロスである。」(ニーチェ『悲劇の誕生』)
「言語的存在は、「私」を含め、いつでもそのままファシストになりうる。」(井澤賢隆『学問と悲劇』垂補)
これは、この催し全体への理念でもああります。
絵画の前でパフォーマンスを行うこと、それはこれまでの絵画史を踏まえながら、それに対抗することです。私は[絶対演劇]を、まずそこに位置づけたかった。次に、観客には向き合わず、絵画に正対することで、声の直接性を緩衝する意味がありました(木内ギャラリーは、マイクやアンプなどが使えないという制約があります)。
用材は、1人につき椅子2脚とテクスト。椅子2脚は背を合わせて置く(写真の配置図参照)。そこで3人交互に単純な演技を行い、絵画に正対してテクストを読むことによってパフォーマンスが遂行されます。
その具体的内容については次回説明します。ご案内のチラシと配置図の写真を添付します。
「絵画/音楽」のコロス の報告(6)
●「絵画」のコロス について(2)
このパフォーマンスは、これまでの[絶対演劇]の引用から成り立っています。椅子の使用、テクストの使用、テクストを読むこと、の3つです。しかし、これらはもちろん単に踏襲するのではなく、微妙にズラしてあります。
まず「椅子」についてですが、2つの椅子は背を合わせ、反対方向に向いています。[絶対演劇]と私が命名した画期的な最初のパフォーマンスは、1991年、名古屋の劇集団オスト・オルガン(海上弘美主宰)が行った「DIE HAMLETMASCHINE - ハムレットマシーンにおける受苦性の空虚に関する上演」です(これはハイナー・ミュラーの「ハムレットマシーン」の日本初演でもあります)。そこでは2つの椅子が並べられたものが3組あり、それらの片側に各演者が座り、前にあるテープレコーダーを操作します。もう片側の椅子は誰も座ることなく、不在のままです。今、私から言わせると、あえて不在を示す必要はありません。何故ならば、すでに「演劇」という事態そのものが、フィクションその他のあり方において初めから「不在」を示しているからです。
今回の私の場合、この並立する2つの椅子を背を合わせて反対方向に配置し、絵画に正対する椅子には演者が座り、その反対側の椅子にはあらかじめテクストを置いておきました。このテクストは観客に向かって提示されており、外部に開かれています。演者はまず絵画に正対した椅子に座り、自分の番が来たら直立してその場で単純な演技を行います。次に後ろの椅子に回り、テクストを手にとって元に戻った後、その絵画に正対しながらテクストを単調に読みます。
テクストを何故読むのか、また、単純な演技の意味するものは何か、については次回説明します。
[絶対演劇]に関しては何の説明もなく叙述を進めてきましたが、これについて論考された参考文献を添付写真と共に2つ示しますので、興味のある方はご笑覧いただければ幸いです。これによって[絶対演劇]の定義、説明は省略します。
1)内野儀『メロドラマの逆襲 -「私演劇」の80年代』(勁草書房)= [絶対演劇]の命名者である私について言及されています。
2)井澤賢隆『学問と悲劇 - 「ニーチェ」から[絶対演劇]へ』(情況出版)
「絵画/音楽」のコロス の報告(7)
●「絵画」のコロス について(3)
今回はパフォーマンスの具体的な流れを説明します。その意味については時間が取れなかったので、次回述べます。
パフォーマンスの流れ
1)「絵画」のコロス は、絵画に正対した椅子に、上下靴下とも黒づくめの服装をした3人(IZA・宮下・森下)が座るところから始まります。
2)次に、IZA、宮下、IZA、森下、IZAの順番で以下の行為を遂行します。
①椅子から立ち上がり、裏にあるもう1つの椅子の前に行き、直立する。
②そこでスクワットを一回行い、直立したあと、右手を伸ばして水平に180度、円を描く。
③次に、空間を縦に切る動作を右手で前に一回行う(右手を前に伸ばして正面仰角度75度までゆっくり挙げ、1秒静止のあと素早く切る動作をして振り下ろす)。
④そのあと、その椅子に置いてあるテクストを取り、絵画正面にある椅子の前に動き、絵画と正対し直立する。
⑤そこで絵画に向かいテクストを朗読する。朗読されたテクストは次のとおり。
IZA 1 『学問と悲劇』「学問のポトラッチ」冒頭部分・「ナルシシズムの問題」全文
宮下 『学問と悲劇』「学問と真理 - あるいは男と女」〔二〕〔三〕
IZA 2 『学問と悲劇』「中西夏之 - 現出する絵画」3節途中まで
森下 各美術館等で開催された美術展のチラシに書かれている文章(例えば、フェルメール展・クリムト展・コートールド美術館展など)。森下の場合だけ、スマホを通してシーザーらが演奏する音楽が流れ、読み上げられたチラシはその場で投げ棄てられる。
IZA 3 『正法眼蔵』「現成公案」冒頭4行の井澤なりの解釈(以前発表したものを踏まえたその場の即興)
⑥朗読終了後、テクストを左手に持ち、右手で水平に横に切る動作をする。
⑦さらにそのあと、時計回りに回って後ろの椅子に行き(森下のみ床に散らばっているチラシを拾い集め)、テクストをその椅子に置いて再び前の椅子に戻り、そこに座る。
⑧以上を、それぞれ繰り返す。
3)演技終了後、3人並び礼をする。IZAより宮下氏、森下氏を紹介して全終了。
以上がこのパフォーマンスの全行程です。
「絵画/音楽」のコロスの報告(8)
●「絵画」のコロスについて(4)このパフォーマンスの意味(以下の番号付け1)2)①②……は、前回の「パフォーマンスの流れ」の順番番号と対応する)
1)どんな「演劇」においても、まずその舞台に演者が入場するところから始まる。演者が見えない場合でも、あらかじめ入場して緞帳が開けられたり、暗闇のままから照明が当てられたりしてある場面から始まる場合も、演者が入場していることに変わりはない。
この、演者の入場を見せるということが、まず重要である。それは「演劇」の虚構性を二重の意味で示すことだからだ。つまり、日常の身体=精神がそのまま入場してくることによって、「演劇」空間・時間との臨界において「日常」自体の虚構性と「演劇」の虚構性が二重の転倒によって示されるからだ。現在、クアトロガトスの「演劇」は、この「演者」さえ舞台に生では登場しない。そのことによって、これら全ての「空虚」(海上弘美)性がよりスリリングに示されている。
これにさらに他の「催し」を隣接させること、そのことによって、この「空虚」はより増幅される。これまで[絶対演劇]は、必ずこの隣接を実行してきた。パフォーマンスに並立してシンポジウム等を行う形式である。私の場合、予告しなかったが、 「絵画」のコロス の後、「音楽」のコロスのリハーサル を公開で行ない、これを隣接させた。
2)①~③ テクストを置いた裏の椅子の前に行き、スクワットを一回行った後、右手を伸ばして水平に180度円を描き、その空間を縦に切る動作…。
これは「絵画平面」を現出させる動作である。
「平面(二次元)」はどこから生じるのか? 普通、一次元から二次元へ、二次元から三次元へ、三次元から四次元へという段階を踏んで展開していくと考えられている。だが、これは全く逆である。三次元から二次元が現出するのである。例えば円筒空間を縦に切り開いたとき、切断部分を左右の辺として、二次元平面が現出する。これが「絵画平面」である。このとき、絵画の裏と表が生じる。だが、この裏と表には円筒三次元の全てが含まれている。これは実は画家中西夏之の認識そのものである。
「縦割りにされた円筒は左右に展開され、平面化されると同時に左右の辺を生んでしまった。画家はこのような拡がりに正面から出会ったのである。……このように左辺と右辺に挟まれた拡がりに画家は出会う。しかしこの平面の拡がり自体も左辺と右辺の出会いの結果なのである。
この拡がりの左辺と右辺は、左極限からの、そして右極限からの接近、即ち狭まりなのである。画家は拡がりを相手に仕事をするのではなく、極大からの狭まりの中で仕事をする。」(中西夏之『大括弧 緩やかにみつめるためにいつまでも佇む、装置』「絵の姿形」)
この認識を敷衍して、私は我々が生きる四次元は五次元を切り開いて成立している、と考えている。もっと言えば、宇宙の根本は素数のように無限の多次元から成り立っていると考えている。もともと多次元だからこそ、四次元、三次元、二次元といった限定が可能になるのである(実際、今の理論物理学「超弦理論」では12次元ぐらいまで突き詰めているようだが)。
「絵画平面」の現出によって、観客は「絵画」の裏面に直面することになる。演者はその「現出絵画」の表面を背にし、面前の現実の絵画に向かってテクストを読み上げることになる。
「絵画/音楽」のコロス の報告(9)
●「絵画」のコロス について(5)
・背後にある椅子の前でスクワットを行い、右手で水平に半円を描いた後、手刀で縦に切る動作……。
このパフォーマンスは、円筒空間を出来させた後、二次元平面(絵画平面)を現出させる行為である。手刀の切断によって左辺と右辺が生じ、その「極大からの狭まり」(中西夏之)が「絵画平面」そのものになる。この切断の瞬間つまり三次元から二次元が現出する瞬間、そこにはまさに「アンフラマンス inframince」(マルセル・デュシャン)が生じている。
アンフラマンスは「極薄」「超薄」「薄外」などと訳されるが、これまでの芸術や思想において全く考えられていなかった「新しい知覚概念・新しい対象着想法」(北山研二)である。アンフラマンスは「名詞」ではなく、「形容詞」。つまり、それはスタティックな皮膜なのではなく、匂いや煙のような流動なのである。既に北山研二氏(仏文学者・デュシャンやルーセル研究の第一人者)は、このアンフラマンスをキーワードにして[絶対演劇]を論じていた(「見える/見えない、アンフラマンス《絶対演劇とアンフラマンス》」『絶対演劇』1992.3)。
二次元平面としての絵画平面には、三次元の全てが余すところなく現出している。 三次元の全ては、三次元においては見ることができない。我々はその中にいるからだ。三次元の全ては、実は二次元において見ることができる。二次元は三次元の切断展開によって出来ているからだ。この二次元平面(絵画平面)の左辺と右辺、表面と裏面はメビウスの帯のようにひねらなくても、アンフラマンスにおいてもともと通底している。そこに三次元が表裏全面展開しているのである。
このパフォーマンスの場合、観客は現出したそのような平面を透過して、現実の絵画やパフォーマー等を観ることになる。そしてこの「遠近法」の中でテクストが読まれるのである。
「絵画/音楽」のコロスの報告(10)
●「絵画」のコロス について(6)
・円筒空間を切り開いて現出した絵画平面を背にし、現実の絵画に正対してテクストを音読する行為……。
これは「時間」を体現するパフォーマンスである。テクストは「台本」では全くない。それは文字どおり文字が引っ掻かれてその痕跡がエクリチュールとして書記された「編みもの」である。その糸の絡まり自体がまず時間の蓄積そのものなのである。
説明しよう。何度も言ってきたように、三次元の空間はそれを切り開いてできた二次元平面に全面的に体現するように、四次元の時間は三次元空間に全展開する。例えば「地層」を観れば、それはすぐ了解されるだろう。「地層」という三次元空間は四次元時間の蓄積そのものである。「地層」だけではない。「生命体」自体が時間の蓄積そのものなのだ。木の年輪は一番解りやすいだろう。われわれの体にしても切り開いてみれば、そこには40億年にわたる生命の進化=退化の痕跡が時間の層となって蓄積されている。いや、素粒子レベルにおいては宇宙138億年の時間がそのまま現前しているのである。三木成夫の「解剖学」はそのような視点からのスリリングな成果だった。既にゲーテの「形態学」にその発芽を観ることができる。テクストという「編みもの」自体も、そのような時間と社会の織り目の中で編成され、今も読者によって織り込まれている生成そのものなのである。
その上に立って、さらにテクストを音読する行為にその時間が二重に体現される。「演劇」の純粋な本質はこの「時間」である。
したがって、テクストは音読することによって常に編成の中で解体されていくが、それでも厳密に選ばなければならない。常套的な意味に固定しているものではなく、どんな解釈も許容する大文字のTEXTがふさわしい。「絵画」のコロス において何を音読したかは既に述べているが、その詳細については次回説明したい。
[絶対演劇]が、一昨年ある本で取り上げられた。
羽鳥嘉郎編著『集まると使える ー 80年代 運動の中の演劇と演劇の中の運動』(ころから 発行)である。この中で、私もパネリストとして参加したシンポジウム「[絶対演劇]への入射角」の全発言内容がそのまま掲載されている。興味のある人はご笑覧ください。
「絵画/音楽」のコロス の報告(11)
●「絵画」のコロス について(7)
久しぶりに書きます。前回に引き続き、テクストの音読の意味とその具体的内容について述べてみます。
テクストを絵画の前で音読する行為、これは前にも言ったとおり、時間そのものの体現のパフォーマンスです。四次元時間は三次元にそのまま現出します。地層、生命体の身体、テクスト(織物)そのものが、それ自体時間の蓄積です。その蓄積は決して「過去」のものではありません。「過去」は現に今ここに蓄積として現れている「現在」そのものです。「未来」も同様です。それは我々が生きるという姿勢そのものに現れている「現在」です。つまり、生きるということは、何らかの「あるべき姿」を求め、そこに投企(アンガージュ)することにおいて成り立っています。「未来」への投企がそのまま「現在」なのです。毎日我々は鏡に写る自分の姿をを見て自己修正(化粧)する所以です。ベルクソンが述べるように、「時間」は過去と未来を含んで雪だるまのように膨らんだ「現在」そのものの「純粋持続」です(『時間と自由』)。テクストの音読は、まさにそれを体現することです。
したがって、「音読」は抑揚を捨象し、平仄を平坦にし、意味の世界に入り込むことをできるだけ避けなければなりません。また、「音」自体の直截性も避けなければなりません。観客に向かって述べるのではなく、絵画に向かうのはそのための、ここ(木内ギャラリー)での最低限の方法です。ただでさえ、観客は意味を求めて解釈し、同調しようとします。その期待の欲望をズラさなければなりません。テクスト(織物)の持つ装飾性(意味)を解体し、交差する糸そのものになって浮遊するのです。それは仏教において「真言」を音そのものとなって唱える在り方と相即します。「人が動物になるのはその「声」によってではないだろうか。」(ドゥルーズ=ガタリ『リゾーム』)。
テクストの音読は、1) IZA 2)宮下 3) IZA 4)森下 5) IZA の順番で行われます。以下、一部内容を示します。
1) IZA
「言語は常にあらかじめ言語化されている。なぜならば、それは最初から言語であるからである。この単純明白な事実は何を意味しているのであろうか。それはつまり、我々が注視し、読み、考え、書いたすべてのものが、我々自身がすでに前もってそこに投げ込んでおいた当のものに他ならない、ということである。書かれたものは、それがどんな内容のものであれ、それ自身においてある完結性を持ってしまうのは当然である。我々は、自身が無意識の内に仕掛けた「同語反復」という罠の中を巡っているにすぎないからである。我々はいつも自分自身と出会っている、それと気づかずに。この時、もはや我々はJ・ラカンのようにいかなる希望もなしに語らなければならない。しかも自分がそれをすることを知っていながらでも。」井澤賢隆『学問と悲劇』「学問のポトラッチ」冒頭部(以下省略)。
「絵画/音楽」のコロスの報告(12)
●「絵画」のコロスについて(8)
朗読テクストの一部を引き続き示します。
1)IZA(続き)
「鏡像段階はその内的進行が不十分さから先取りへと急転する一つのドラマなのですがーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現れ、―そしてついには自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります。このように内界から環界へという円環の破壊は、自我の内容点検というきりのない計算問題を生じさせます。(J.ラカン『エクリ』「〈わたし〉の機能を形成するものとしての鏡像段階」宮本忠雄訳)
池に映る自分の姿に恋をしてしまったギリシャ神話のナルシスの名前に由来する「ナルシシズム(自己愛)」は、今やたんに精神分析だけの用語を超えて、すぐれて現代的な状況を照射する一つの術語となっている。だが、問題はナルシシズム的状況にある現代の社会や文化、人間などのあり方をえぐり出すことにあるのではなく、むしろ「ナルシシズム」というあり方自体の顚倒性をこそ提示することにある。なぜならば、現代の社会や文化がナルシシズム的状況の中に陥っている、というよりも、逆に「ナルシシズム」こそが社会や文化自体の根幹を成り立たせている当のものなのである、といってよいからである。
「ナルシシズム」は、まさに人間が初めて外界と出会ってそれを分節化しようとするとき、同時に自身の身体自体も分節化され、統合されることになるその最初の瞬間に現出する一つの機構として作用するのである。このような「ナルシシズム」の現出する分散空間を開示し、その問題性をさし示すこと―これがこの論での課題である。(以下省略)」(井澤賢隆『学問と悲劇』「ナルシシズムの問題」)
2)宮下
「未だ女は女自身によって発見されてはいない。そしてそれはこれからも永久に発見されることはない。なぜならば、女が自分自身において見い出すものは、常に「男」だからである。女は発見されるのではない、それは常に体現されているのだ。―もちろん、私は「真理」についても語っているのである。
女(真理)を見い出そうとするもの、それは常に男(学問)である。
女が学問的な傾向をもつのは、通常は彼女にどこか性的に異常なところがあるからだ。すでに不妊ということが趣味をある意味で男性化させる。―すなわち、男は、失礼ながら「不妊動物」である。―(『善悪の彼岸』)
学問的人間とは「不妊動物」である。反対に、真理は常に「懐妊」している。懐妊とは自己の内に世界を所有することであり、それ自体自己完結的な世界である。しかも、自らの力で外化(出産)すらもなし得る。
男は常に「懐妊」を欲している、それが不可能であるがゆえに。学的態度とは女の子宮(真理)を自己の内にとりこもうとするあり方である。もちろんそれは不可能だが、男はなおもあきらめきれずに、学問という観念を頭の中に孕むことでその欲求を埋めている(それでさえ、実現できていればの話だが)。(以下省略)」(井澤賢隆『学問と悲劇』「学問と真理―あるいは男と女」)
3) IZA (省略)
「絵画/音楽」のコロスの報告(13)
●「絵画」のコロスについて(9)
2か月ぶりの「報告」です。引き続き、朗読テクストの一部を示します。
このテクストの選択は、出演者に任せました。宮下直紀さんは特にこだわるものはない、ということでしたので、私が書いたテクストを読んでもらいました。前回示したものです。
森下貴史さんは、各「美術展」のチラシの文章を読み、読了後それを床に放り投げたい。また、「J・A・シーザーと悪魔の家+天井桟敷」の音楽をスマホから小さな音で流したい、ということでしたので、了承しました。これまでの「美術史」の中に[絶対演劇]を位置付けてみたい、という今回の意図に合致していると思ったからです。音楽は当初予定していませんでしたが、小さな音で雑音すれすれのものを流すのも戦略になるか、と考えたからです。ただし、放り投げたチラシは自身のパフォーマンス終了後、回収してそろえ、再び椅子の上に置くように指示しました。
3) IZA
「人は最初どのように絵をかくだろうか、最初の人はどのように絵をかいただろうか」(中西夏之「人は最初どのように絵をかくだろうか……」1981年)
この問いは中西夏之の絵画の核心を示す彼自身の自問としてよく知られているものである。たしかに中西は1980年代になってこの問いの直截性に直面し、それを自身の絵画の認識・方法論かつ存在論とすることによって、新たな地平を絵画に見出したと言ってよいだろう。しかし、なぜこの問いに直面せざるを得なかったのか、また、これ以後彼は変容を遂げたのかあるいは遂げないでいるのか、今、東京都現代美術館で開催されている「中西夏之展 白く、強い、目前、へ」(1997年1月18日~3月16日)において1950年代後半から今日までの彼の「絵画」の全容を一望して、そんな思いが静かな眩暈とともに浮かんできた。時代の変化と相即している彼の絵画には、ある一貫性が認められることも確かだし、また次元の微細な変容があると言うこともできる。いずれにしろ、中西自身にとっても先の問いの発見は一つの結節点となっている。ここではその地平にある絵画を「未発生の絵画」という視点からとらえ、それ以前を「痕跡=遅れとしての絵画」および「純粋絵画」という二つの観点から、以後を「現出する絵画」という論旨からそれぞれ述べてみたい。(井澤賢隆『学問と悲劇』「中西夏之ー現出する絵画」冒頭部〔以下省略〕)。
4)森下
「それは、このうえもなく優雅な事件。フェルメール展 2018.10.5fri~2019.2.3sun 上野の森美術館 日時指定入場制 1.牛乳を注ぐ女 2.手紙を書く婦人と召使い 3.赤い帽子の娘 4.手紙を書く女 5.真珠の首飾りの女 6.マルタとマリアの家のキリスト 7.リュートを調弦する女 8.ワイングラス 9.取り持ち女」
「ムンク展ー共鳴する魂の叫び MUNCH A Retrospective 10月27日(土)-1月20日(日) 東京都美術館「自然とは、目に見えるものばかりではない。瞳の奥に映しだされるイメージ―魂の内なるイメージでもあるのだ。」「私の唇に重なった、燃えるような、上下の唇。天国も、地獄も、ない。二つの黒い目は、私をじっと見つめている。」」
「2019年、未知なるゴッホに出会う。 ゴッホ展2019/10/11金→2020/1/13月・祝 上野の森美術館」
「サイ・トゥオンブリーの写真―変奏のリリシズムー 2016年4月23日(土)ー8月28日(日) DIC川村記念美術館」
「GVSTAV KLIMT ウィーンと日本1900 待望のクリムト展、過去最大級。 2019.4.23(火)-7.10(水) 東京都美術館ー東京・上野公園ー」
「中村宏|図画事件1953-2007 目に飛び込んでくるもの、それは事件だ。―異系の絵画者、半世紀の記録 2007年1月20日(土)→4月1日(日) 東京都現代美術館」(略記)
5) IZA
『正法眼蔵』「現成公案」冒頭を、「『正法眼蔵』融解(ゆうげ)」として講義。その内容は省略し、『正法眼蔵』「現成公案」冒頭四行を示す(もちろん、これも朗読した)。
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」(水野弥穂子校注・岩波文庫)
「絵画/音楽」のコロスの報告(14)
●「絵画」のコロス について(10)
◆[絶対演劇]という予言
「[絶対演劇]という予言」というこのタイトルは、別に新型コロナウイルス禍だから思いついたわけではない。すでに10年以上前に着想していた題名である。今、『人物詩』という自身の詩集の発刊は来年に延期したが(原稿はもうすべてできている)、その他にも著作『「演劇」の絶対零度 ー 高度資本主義と[絶対演劇]』の上梓も、数年後にはなると思うが、予定している。冒頭のタイトルは、この書物の最終章のそれとして考えていたものだ。ここにその章立てを披露し、[絶対演劇]という予言 について述べてみたい。。
『「演劇」の絶対零度 ー 高度資本主義と[絶対演劇]』
Pharynx(序)「物語」- 蠱惑する呪物
Ⅰ シニシズムとしての「演劇」- 豊島重之=モレキュラー・シアターの位置
Ⅱ 唯物論への誘惑 ー 清水唯史=クアトロ・ガトス「rest/labor」
Pylorus(間奏)
(1)「教室演劇」というスリル ー モレキュラ・シアター「『ほこり』の演劇」
(2)ハイナー・ミュラーのシェイクスピア・ファクトリー ー
H・ミュラーテクスト集1『ハムレットマシーン』書評
(3)オスト・オルガン、「縦の隣接」へ
Ⅲ「演出家」の廃業 ー 海上宏美の身心脱落
Appendix(垂補)クアトロ・ガトス ―「絶壁」の先への跳躍
Ⅳ「資本」、その増殖への強迫性 ― ニーチェ『悲劇の誕生』について
Rectum(跋)[絶対演劇]という予言
(これらの内、三分の一はすでに雑誌等に発表済である。)
[絶対演劇]は、1991年に私が命名したその当時から次のような認識を持ち、実行していた。
1)「劇場」およびそれに類するものは「収容所」である。
2)[絶対演劇]において「観客」は放置する。
この認識・実行の上に、2000年代になって、
3)オスト・オルガンの主宰者=海上宏美の「演出家」廃業宣言、という先取的な事態があった。
これら三つの事象は、今やこの新型コロナウイルス禍の中、いや、この新型コロナウイルス禍という監禁状態になって初めて、誰もがやっと理解できる問題となったように思われる。
1)「劇場」を「収容所」と規定したのは、詩人でドイツ文学研究者の瀬尾育生である。この定義の徹底性に、当時私は腑に落ちるように共感した。「収容所」とはもちろん「絶滅収容所」のことだ。
一体、人々は「演劇」に何を期待して、それが行われる「劇場」に足を運ぶのだろう。「最新の演劇を見てみたい」「物語に浸りたい」「役者を見てみたい」「何か新しい刺激を受けたい」「劇場の雰囲気を味わいたい」「日常から脱したい」「違うものに夢中になりたい」「我を忘れたい」など、おそらくさまざまであろう。だが、「劇場」に入った途端、そこはもはや席に拘束され、その中に監禁される場となる。そして、自身のさまざまな「欲望」は、その「演劇」にそのまま支配され、さらに「劇場」という装置自体を作っている大きなシステムである「欲望の資本主義」に、無意識の内に取り込まれているのである。個人の現存的な在り方で言えば、ハイデッガーが規定しているような「存在忘却」という事態である。
[絶対演劇]は、まずこういう「期待」に最初から関与しない。「演劇は演劇である」という以外にない、悲観・楽観を脱落した場所でパフォーマンスを行う。「期待/忘却」(ブランショ・清水唯史)の地平である。
2)したがって、その帰結として「観客」の期待のズラシを「放置」という形で実行する。観客とのコミュニケーションさえ意識しない形である。これは特に清水唯史=クアトロ・ガトスが自覚的に為してきたものである。十数年前からクアトロ・ガトスのパフォーマンスにおいては、リアルな出演者さえ出てこない。「リモート出演」どころの話ではない。
3)しかも、海上宏美はもう20年も前に、これも自覚的に自ら「演出家」を「廃業」したのである。「演出家」として「演劇」に関われば関わるほど、「欲望の資本主義」に取り込まれざるを得ない、その悪循環を自身を文字どおり皮切りにして断ったのである。
今、新型コロナウイルス禍の中、「劇場」自体がクラスター発生の場となり、「観客」は知らされないままウイルス禍を受けた。「絶滅収容所」の構造と同じである。そのリスクを知った人々は、もう「劇場」に足を運ぼうとはしない。そしてそのことによって「演劇」自体がまさに「廃業」を余儀なくされ、現実にいくつかの「劇団」はそうなっている。私はこんな事態に全く驚きはしない。すでに30年前から[絶対演劇]が予言していたことだからだ。[絶対演劇]は、このような事態を当然のこととして最初から自覚的に保持し、なおかつさらに受容可能な状態において「演劇は演劇である」というトートロジーを遂行していたのである。
ところで、豊島重之=モレキュラー・シアターは、1990年代前半、「絶対演劇派」の一つとして積極的に[絶対演劇]に関わり、それ以降、自身の場である青森県の八戸のローカル性をそのまま普遍性にまで高める形での「演劇」他を遂行してきた。その豊島氏が昨年1月に急逝されてしまった。非常に残念である。今年(2020年)3月に発行された『舞台芸術 PERFORMING ARTS』23号(京都造形芸術大学 舞台芸術研究センター 企画・編集)に、「豊島重之 追悼 モレキュラー・シアターの軌跡」として特集されている。お知らせするとともに瞑目・合掌したい。
「絵画/音楽」のコロスの報告(15)
●「音楽」のコロス について(1)
今日から 「音楽」のコロス についても述べてみます。
これは 「絵画/音楽」のコロス の企画・展示の中、2019年12月26日(木)に行った私のコンサートです。すぐその後に実施した 『モノロゴス・ポリロゴス(放話・群話)「音楽・コロス・宮澤賢治」』 と隣接させています。ちょうど1年前のことです。
1970年代から、「シンガーソングライター哲学」として、いろいろな曲を作詞・作曲し、歌ってきました。そんな中で、宮澤賢治の亡き妹「とし」に対する一連の挽歌に引かれ、編詩して独自に作曲してきました。『春と修羅』の「無声慟哭」5部作と「オホーツク挽歌」5部作を中心に、現在15曲ほど作っています。これまで人前で数曲単位で歌ったことは何回かありますが、全曲を一気に歌うのは初めてでした。
今回はそのプログラムを紹介し、その内容と歌の映像他については次回以降で公開したいと思っています。
■「音楽」のコロス
宮澤賢治「妹とし子への挽歌」13曲連弾唱
(序) テーマ’76
(第1部)
永訣の朝
松の針
無声慟哭
風林
白い鳥
(間奏) 胎児が密猟する時
(第2部)
青森挽歌
オホーツク挽歌
宗谷挽歌
青森挽歌3
噴火湾―ノクターン
(垂補)
〔なべてはしけく よそほいて〕先駆形
〔きみにならびて野に立てば〕先駆形
しだれ柳―手児奈に捧ぐ
(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)
原詩 宮澤賢治
編詩 井澤賢隆
作曲 IZA
以上
「絵画/音楽」のコロスの報告(16)
●「絵画」のコロス について(11・最終回)
・「絵画」のコロス について の最終回、感想を述べてみる。
このパフォーマンスは、出演者3人による打合せのみで、リハーサルなしでいきなり本番を行った。それは時間がなかったせいもあるが、それで良いと私が考えていたからである。演出・構成については詳細に指定してあるし、清水唯史氏の首肯も得ていた。それに従って後は出演者に任せた方が、かえって[絶対演劇]たりうるだろう。その演者の宮下氏・森下氏は[絶対演劇]をよく理解してもいる。そのことによって、演者1人1人の何か自由な時間・空間が広がるのではないか、そんな思いから私は演者2人を信頼していた。
実際、2人はそれぞれの役割をそのまま果たした。演者が「人間(機械でも)」である限り、演出によって規制・抑制しても、そこにはその演者の「色合い」が出る。演者自体の身心がその場に現実に提示されているからだ。通常の「演劇」などは、むしろそこに依拠して「役者」の個性の展開を期待している。[絶対演劇]はその「色合い」を否定はしないが、それを助長させるという発想は全くない。何度も言うように、クアトロ・ガトスではもはやそのような生の「演者」は舞台に登場さえしない。
このような思考を踏まえた上でありながら、今回問題があった。それはIZA(私)自身である。テクストの音読は、できるだけ意味を喚起させないように、抑揚を抑え平坦でなければならない。だが、そこが講義調になってしまったのである。特に『正法眼蔵』「現成公案」の冒頭4行解読は、即興ではあるが現実の自身の講義録が念頭にあったので、余計そうなってしまった。このことは、私の「演者」としての自意識自体が私自身にとっていかに無自覚であったか、ということを表している。それは「色合い」以前の問題で、全く「脱落(とつらく)」できていなかったのである。この問題の本質は深い。いまここに、こうして私が「書いている」ということとも通底している事態である。
わざわざ足を運んでくれた観客は3名。クリスマス当日の平日の昼間、しかも辺鄙な場所なので一人でも来てもらえれば、と思っていた。内2名はそれぞれ演出もし、演者にもなる「演劇」のプロである。もう1名も、11月のさる演劇の企画を観にきてくれた人であった。観客は「放置」する演出で行ったが、常に意識はしていた。私が講義調になったのは、その観客に下手な忖度をしたせいもある。
このパフォーマンスを行って思ったことは、「絶対演劇派」の3つの劇集団、クアトロ・ガトスとオスト・オルガン、モレキュラー・シアターの偉大さである。それについては新しい著書の中で示す予定だが、それが実感できたことが大きいと感じている。また、自身の[絶対演劇]の構想を、身をもって深めることもできた。
新型コロナウイルス禍が始まる直前、この企画が遂行出来たことに感謝している。
・概要をもう一度列挙する。
1)日時 2019年12月25日(水)14:00~15:00
2)場所 市川市・木内ギャラリー
3)内容 「絵画」のコロス(パフォーマンスあるいは[絶対演劇])
①演出・構成 井澤賢隆 清水唯史(クアトロ・ガトス)
②舞台・美術 井澤賢隆
③出演 宮下直紀(クアトロ・ガトス)森下貴史 IZA
④音楽(一部) 森下貴史
⑤テクスト選択 井澤賢隆 森下貴史
⑥使用テクスト
井澤賢隆『学問と悲劇』(情況出版)
道元『正法眼蔵』「現成公案」(岩波文庫)
各美術展のパンフレット
(詳細は、これまでの連載を参照していただければ幸いです。)
以上