07年1月


世界の「外部」を求めて、「芸術」との出会い。


中央大学法学部3年



 以前、先生とお話ししましたが、私にとってこの一年はとてもゆっくりと流れ、鮮明で濃密な瞬間の数珠のような時間でした。それは永遠に続くという無限な感覚というよりは、先生がご指摘されたように、私の周りで時間が止まっているかのようでした。先生と最初にお話しした日、米国留学の話題で、「○○○○」の持つ属性をできるだけ削ぎ落としてみる試みを異国の地は可能にしてくれたと、私は総括しました。その結果、自分がゼリーのように溶け出していくような感覚にとらわれていくということを、先生にお話ししたところ、好意的に解釈してくださったのが嬉しく、いまでも覚えています。その感覚がしばしば私を時間から解放してくれているのだと思います。

 同じ頃に「被触発的能力が高い」とのお言葉を頂きましたが、「底なし地獄」に降りて行くためには、アウシュヴィッツの「回教徒」やバートルビーのように、それを完全に喪失することが必要であるとも教えて頂きました。この難しいテーマについては、基礎ゼミに参加させて頂いたときに、思いがけず思考のヒントを得ました。アウシュヴィッツに収容された人の身体の浮腫についての記述を学生が音読しているなか、私の隣に座っていた女子生徒がその内容に耐えかねて泣いていました。一年前の私ならおそらく彼女よりも早く涙を流すか、あるいは涙腺と感情とが繋がる前に硬直していたと、そのとき思いました。そして驚いたことに、彼女のように涙を流さなくなることは、私がそれまでもっとも恐れ、恥じていた事態ではなかったのでした。


  【7月19日】7月12日の井上ゼミに参加して

  あの子が泣いたとき、私は泣かなかった。

  しかしそれはあの鈍感さでも忘却でもなく、

  そのとき私は彼らとともに立っていた。同じ地平に。

  涙を流すという行為が、彼らと私を隔てていたのだ。

  沈着である自分をはじめて強いと感じた。


 そんなことを考えていた頃に、私はタイの少女たちと出会いに赴きました。そしてそこで私は痛感しました、「サバルタンは語れない」ということ。同じ地平に立っているなどと一瞬でも考えた自分を嫌悪するほど、彼女たちがいた場所は、私が悲しみなしに立ち会うことを許してくれるものではありませんでした。しかも同時に、私が独りよがりにも悲しむこともまた彼女たちの望むところではないのだと知りました。

 とは言うものの、タイでは参加者たちのディスカッションの時間がとられたとき、私は100バーツ(=300円ほど)で母親に売られた赤ん坊と「私たち」にどれほどの違いがあるだろうかとやはり訴えました。売られた子どもが「私たち」と同じだけの人権や尊厳をもつというのではなくて、「私たち」もまた売られてゆく身体なのだと伝えたかったのですが、それは国際協力の現場ではタブー的な考え方のように感じたのを覚えています。

 昨年の夏にはまた、専門ゼミの合宿で沖縄の戦跡を巡りました。このほど、沖縄合宿のレポートを書き終えたのですが、そこでも使用した沖縄について記した私の手記のようなものを紹介いたします。


【嘉数高台にて現存するトーチカを見学】

*嘉数高台公園・・・沖縄戦最大の激戦地、嘉数高台の地に造られた公園。展望台は中部一帯を一望でき、周辺には慰霊塔が点在する。日本軍が使用した「トーチカ」がある。

*トーチカ・・・(ロシア語)鉄筋コンクリートで堅固に構築して、内に重火器などを備えた防御陣地。一般的に円形か方形もしくは六角形で、全長が数メートルから十数メートル程度。

 トーチカになりたい。

 「戦争では木や草は焼けて、何にもなくなった」という言葉が思い出されるのは、沖縄の草が私の靴底を抱き止めて、沖縄の木々が私の髪をなでてゆくとき。「土は吹き飛ばされて、沖縄の白い珊瑚の地面があらわれた」というその光景は、嘉数高台の下に転がるミルク色の岩から広がる。「そこにトーチカだけが散らばっていた」という私の見知らぬ世界は、いまも残るトーチカそのものが私のところへ運ぶ。視界から緑が消えて、ミルク色があたりを覆い、そして私はトーチカに降りてそれに触れる。激戦地で倒れた彼らも触っただろうそのでこぼこの肌に、剥き出た鉄の棒に触れて。

しかし、やはりどうしようもなく、私の耳は砲弾や銃撃の音のかわりに、緑色の葉が風に揺らぐ音を聞く。ミルク色の地面には、茶色い落ち葉が柔らかく敷き詰めてあるのを私の足はちゃんと覚えている。鳴かないはずの蝉の声が時間の隔たりを告げるなか、こうしてトーチカに寄り添って、でも私は戦争を知らない。悲しみとはあまりに複雑で、できることならいっそ、私はトーチカになりたい。


【佐喜眞美術館で絵画『沖縄戦の図』を観る】

*佐喜眞美術館・・・佐喜眞道夫氏による個人美術館。1992年に返還された普天間基地の一部に、基地に隣接して建つ。コレクションのテーマは生と死、苦悩と救済、人間と戦争に統一されている。屋上は6月23日「慰霊の日」の日没線に合わせて、階段の向こうに夕陽が沈むよう設計されている。

*『沖縄戦の図』・・・丸木位里、丸木俊の共同制作。400×850はとしよりを/エメラルドの海は紅に/集団自決とは/手を下さない虐殺である」という文章が記されている。

 死者のなかに。

 佐喜眞美術館の壁画のようなあの大きな絵を描いた二人の画家は、自分たちの肖像を死者のなかに加えたという。彼らはヒロシマの原爆を見たヤマトンチュで、その場所に自分の姿を描くまでに、「沖縄」にたいしてどれだけ真摯な思考と心を尽くしてきたのかと、私は途方もない想像をする。ヒロシマも知らない日本人が、この絵を映すための眼と、感じるための肌と、語るための言葉と、向き合うための生を引き受けるためには、どうしたらいいのか、二人のおじいさんとおばあさんに聴きたい。心を痛めて涙を流すだけでは、足りない。それでは、彼らと立っている場所がぜんぜん違う。いつになったら、どうしたら、私の涙は枯れて、痛みは凍りつくのか。そしたら私も、ガイコツの山のなかに入れてもらえるかもしれないのだけれど。でも、お二人の伝えたい言葉は、きっと絵のなかに描いてあるのでしょう。

 美術館の屋上にある階段は、青い空に伸びていて、白い雲に飛び移れそうな具合だ。誘われるように先へと上っていくと、そこからは米軍の基地が見渡せた。生い茂る深い緑のなかに、すくっと立つフェンスを見下ろしていたときだ。私の目の前をトンボがふわっと飛んでみせた。「沖縄では、亡くなった人の魂は、蝶やトンボになって還ってくる」と、確か館長さんが教えてくれました。


【チビチリガマとひめゆりの塔を訪れる】

*チビチリガマ・・・読谷村にある石灰岩の自然洞窟。米軍上陸後の4月3日に、波平地区の住民85名がここで火を放ち、あるいは毒薬や刃物をもちいて集団自決を強いられた。

*ひめゆりの塔・・・沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校生徒222人による「ひめゆり部隊」が看護活動を行っていた最後の場所、旧陸軍第三外科壕跡に建てられている。壕より脱出する直前に米軍のガス弾が打ち込まれ、兵士や学徒の多くが死亡、生き残った者もさらに荒崎海岸に追い込まれ自決したりした。隣接するひめゆり平和祈念資料館には、200余名のひめゆり学徒と教師の遺影が壁面にかけられている展示室がある。

 こんにちは。

 ガジュマルの樹がいたずらに垂れ下がっていて、それをくぐったさきに、チビチリガマはありました。いまは静かな岩の隙間。血の臭いで満ちることも、彼らの声が響くこともない。でもそこは、私が寄り添えるような岩ではなくて、ガジュマルではなくて。おそるおそる岩肌に触れて、しかしその感触を記憶する前に、私ははっと静かに手を離した。その空間に残された何かが、私を小突き、弾くようだった。彼らが許さない何かを私はまだ捨てられていないのだと感じます。私はうな垂れ、ガジュマルの樹をよけて、神経質な彼の根に触れないように帰ってきました。

 ひめゆりの塔の最後の部屋。少女たちの顔。ひとりひとりに「こんにちは」と呟いて、その名前を読んだ。でも、全部の名前を覚えることもできず、泣いてむせぶほかは何もできない。彼女たちに囲まれて、私は生きていることが恥ずかしくなる。偶然にも自分が死んでいないことが、許されない気がする。暗い穴の底で死んでいった名のある少女たちを前にして、私はどうして「命の尊さ」を噛み締めることができるのか。ここにあった命とは、現実に、こんなにも「尊さ」を持たせてもらえなかったのだ。彼女たちの前で、私が「命」などと語ることは、それはおよそ自分の生存の口実、幸福の言い訳に過ぎない。


【平和祈念公園から眼下の海をのぞむ】

*平和記念公園・・・沖縄戦最後の激戦地となった沖縄本島南部、摩文仁の海岸にある公園。公園内には、平和の礎、平和祈念資料館、平和祈念堂などがある。

*平和の礎・・・1995年に建立された石碑。沖縄戦で亡くなった軍人、住民など、国籍は米国、台湾、中国、朝鮮なども含め、23万余の戦没者方の名前が刻まれている。

 エメラルドの海は紅に、そして祈り。

 エメラルドの海はこうして再びエメラルドに。赤い潮水は海の底に。記憶の底に。私たちの底に。もうそれは私に届かないのか。もしかすると私たちの目は見るかもしれない、死体の砂浜を。ひょっとしたら私たちの耳は聞くかもしれない、断末魔のそのあとの叫び声を。いつの日か私たちの手は思い出すかもしれない、腐った皮膚の感触を。だけど、私たちはもう届かない、そこにあったあの臭いには。ジュネは「臭い」を書くことができた作家だと、私に教えてくれた人がいました。ジュネ、あなたならこのエメラルドの海で、どんな言葉を選ぶのでしょうか。

 その岬には、平和の礎がありました。「祈り」とは、私が愛するものの一つです。人間が多くのものと引き換えに手に入れてきたもの、そのなかで美しいものは奇跡ほどしかない。「祈り」は美しい。それを信じる「祈り」には奇跡と同じだけのものが宿るかのようだ。祈りに色がついていたなら、たとえばそれは淡いオレンジ色かもしれない。あちこちから立ち昇るいくつものすじで世界がオレンジ色に包まれたら、人間はついに殺し合いをやめるかもしれない。戦争はなくなるかもしれない。本当に、人びとの、祈りとは。ただ、祈りには色がついていないのです。


 沖縄についていまの私が高尚に論じても、それは他人の言葉を借りただけの陳腐なものになってしまう気がしたので、形式自由という条件の沖縄レポートではこのような内容を含むものにしました。専門ゼミで提出したのですが、読者を想定するなら井上先生を念頭に置いたものなので、散漫な文章ですがここで読んで頂くことにしました。

 ちなみに、沖縄レポートのタイトルは以下です。


 そしてもぐれ! その底で おまえを待つものは、

    —外部はあるはずだ—


 ゼミで触れたブレヒトの詩の一部を引用しました。その詩の一節を紹介します。


  お前の部署を棄てろ

  勝利はたたかいとられた、

  敗北もたたかいとられた。

  お前の部署を、直ぐ棄てろ


  ふたたび底深く、勝利者よ、もぐれ

  たたかいのあったところ、そこに歓呼の声があがる。

  だが、もうそこにはとどまるな

  大声で敗北がさけばれるところ、その深淵のなかで

  その叫び声を待て

  古い部署を棄てろ


 そのときのゼミのテキストだった藤田省三の「ある喪失の経験」(『精神史的考察』)で、藤田氏はこのように述べていました。


 ほぼ一切の勝敗において、勝者はいつも勝利の瞬間に有形無形の「歓呼の声」をあげるのであり「名声」と「栄誉」を当然のこととしてわが身につけるのであった。しかしブレヒトが詩い、ベンヤミンが哲学化した「勝利」とはそのようなものであってはならなかった。「敗北もたたかいとられた」という一句が物語っているように、彼らから見れば敗北もまた獲得された経験であった。それなのに勝利だけがどうして一つの経験の完了以上のものでありえようか。勝利者は勝利の瞬間にもうその場から脱出して「再び底深くへともぐる」ことが必要であった。


 そのあとにブレヒトが再度引用されて、「そしてもぐれ!その底で、おまえを待つものは、」の一文がありました。ここでは、舞台芸術論の最初の授業で井上先生がおっしゃった「敗北に耐えるためのものとしての芸術」という言葉が思い出されました。

 サブタイトルの「外部はあるはずだ」というのは、沖縄の居酒屋の寄せ書きに私が落書きしたものでした。専門ゼミのなかではその頃、この世界つまり消費社会の「外部」に出ることが可能か否かを議論していて、その問題は私の最大の関心を引いたと同時に私をこの上なく絶望させた問いでした。いかなる脱「消費」への努力も意志もそれ自体がまず消費されて、つまるところ私は「消費」するのだという現実に、打ちひしがれていた沖縄での夜、ベンヤミンの「新しき天使」について川原先生から説明して頂き、その勢いで「外部はあるはずだ」と意気込んだ次第です。

 舞台芸術のノートを見ると、この「外部」なるものに、同じころ私は井上先生の授業で耳にしており、「世界の外部へつながるへその緒」を通って、「不吉な呼び声」が「外部」すなわち「死の未知性」から聞こえてくるという内容でした。また、「象徴界からその外部へという志向性」を「商品化、消費、理解する」という「資本主義の怪物性」についても先生は話されています。この外部への穴が閉じてしまっている現代で、外部への志向性が余すところなく回収されてしまう構造から逃れることは極めて困難なことであると、実のところ恥ずかしながら私はこの夏はじめて知りました。

 とりあえずこうして一縷の希望を託してもよいらしい「新しき天使」とやらに一安心していた秋、井上先生がジョルジュ・ドンを授業で紹介してくださいました。その前に、グレン・グールドの映像について触れておくと、「音楽から肉を削ぎ落とし、色彩ではなく骨格を剥き出しにする」「性のない音楽」というシュネデールの言葉とともに、それは私をなにやら底あるいは芯から勇気づけるものでした。そして同じ日に見たジョルジュ・ドンの映像は道化を演じていたもので、とんでもない道化を観てしまったとあのときに何かを感じ取ったのを覚えています。そして芸術などに疎く、眼も育っていない私ですが、『ボレロ』には釘付けになりました。今度こそ、これはきっととんでもないものを観てしまったぞと、私の全身が静かに雄叫んでいました。それを意識した途端に消えてしまうほど微妙なものでしたが、私はドンの踊りに「外部」を感じた気がします。私が心底「芸術」に感動したのは、これが生まれて初めてです。舞台芸術の授業を受けていて、本当によかったと思いました。

 いわゆる「クラシックのクの字も知らない」私でしたが、たまらずにさっそく適当なCDを購入して、自宅でラヴェルの曲を聴いてみました。そして驚いたことは、この曲は聴く人の気分を果てしなく高揚させる力があるということでした。つまり、ふとしたときにそれは「抑止状態を解除してくれるものに飛びつき、没頭する」ことへ私を誘うのでした。そして、さらに驚いたことはやはり、このような曲の強力な誘惑のなかで、恍惚ではなく放心して踊るドンの姿でした。「今夜の舞台に立って踊ったら、それですべてが終わる、今夜が踊れる最後の機会であり、今夜踊ったらもう明日はこないと思っている」というドンだからこそ、あの視線は可能であり、その視線に出会っただけで私は、この世界に芸術というものが存在していて嬉しいと純粋に思いました。ドンについて語るだけの言葉と教養がいまの私には足りていないので、ただの感想文になってしまうのですが、とにかく私の感動が先生に伝わっていれば幸いです。


〈追記〉

 前期の清水さんの講演で、「資本主義のメカニズムを破綻させるもの」として「労働力商品」と「芸術作品」が挙げられていました。その日のお話では取り上げられなかった「芸術作品」についていま、このようなかたちではありますが、やっと少し理解できた気がします。

後期の講演については、二点ほど特に印象深かった内容に触れます。一点目は「国家権力は個人の内面とプライバシーに立ち入らないと保証し、その結果として私的領域は無法地帯であり、家長・男性支配の国家による保護が維持されている」という説明ですが、以前に先生がお話ししてくださった「家族収容所」を思い出しました。「私的領域は公的につくられたもので、国家権力から独立しない」ということは、「家庭」が人工的で、根本的な問題を孕んだものであるということを想像しやすい指摘でした。「家庭・家族」について、これからもっと深く考えてみようと思います。

 二点目は「アスペクト盲」の説明のなかで、話題になった「意味盲」です。「言語や認識は規範秩序に沿うように支配されていて、そしていつも規範的世界から離れてズレてしまうアスペクト盲、意味盲と隣り合わせに生きている」ということですが、「意味盲の語・文」にとても興味を持ちました。たとえば、音そのものに委ねていたはずの聴覚や身体は、それが何の音であるか、あるいは何をモチーフにした音の連なりだったのかを知った瞬間、音そのものとの遭遇は残念ながら絡め取られて、そこにはかわりに窮屈な騒がしいヘッドホンが装着されてしまうように感じることがあります。「意味盲の語・文」はその反対の過程をたどるもので、軽く自由な言葉のようでした。つまり「盲」というのは別のものに「ひらかれている」ようで、私にはとても魅力的でした。もう少しこのことについて実験的に考えてみたいと思います。


 三枚程度のお手紙にしようとしたのですが、先生に聞いていただきたいことが多く、予想外に長くなってしまいました。思いつくままにつらつらと書いていたので、散漫さをおさめるためにも、タイトルをつけておきました。「外部」を求めての私の苦悩と「芸術」との出会いが、この一年の私のテーマだったように思います。舞台芸術の授業で、私はたびたび救っていただきました。井上先生にはいつもです。心から感謝しています。ありがとうございました。これからも、末永くよろしくお願いいたします。

 ではまた。



CUATRO GATOS

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