06年12月


『メディア芸術』論


秋山紘範(中央大学法学部2年)



 いつの事であったかは忘れてしまったが、昔母親からテレビドラマが生放送で行われていた時代の話を聞いたことがある。そこで話題になったあるドラマは、主人公である少女が呪文を唱えると世界の時間が止まるというものだったそうだが、彼女が「時間よ止まれ」と口にしても当然その瞬間に役者全員が全ての動きを止められるわけもなく、役者毎にタイムラグが生じていたという。またあるドラマでは、登場人物の一人が死亡し、霊安室で遺体を横にして遣り取りが繰り広げられるというシリアスなシーンであるにも関わらず、死人の顔にかかった布が呼吸に合わせて上下していたお陰で笑いものにしかならなかったそうだ。

 それから50年以上が経ち、映像技術の進歩は役者の身体性を徹底的に排除させる方向へと向かっていった。魔女は合成技術という魔法によって、静止した瞬間の中を自由に動き回ることが出来る。アイドルの身体に固有に備わったシミもそばかすも今では編集で消してしまうことが可能になっており、アイドルはまさに本人の身体を離れた『偶像』が一人歩きを始めている。また、音声技術の進歩についても言及すれば、最近では歌謡曲の収録で歌手の生の声がそのまま使用されることはなく、多かれ少なかれ音声加工が施されている。殊にある人気を博したグループにおいては、当人達の歌唱能力が余りにも低かったために、相当程度加工してようやく聴けるような歌にしたという噂まで流れている。

 このような(時には「リアルさ」と表現する者もいるが、それよりは誤りでありむしろ)「自分の思い描いたイメージを限りなくそれに近い形で映像化する技術」の進歩の構造は、演じている(あるいは歌っている)本人の身体性を削ぎ落とし、それを支配して商品化することを残酷なまでに可能にしてしまった。ここにおいて、クリエイターの思い描いた理想像は即『掟』となり、身体の提供者は自己の身体(の行為)を彼/彼女の思うままに弄ばされることになる。こうして、映像・音声作品の製作過程において一種の法が措定されることになる。

 以上の映像演出における技術進歩は、権力が自らの存在を秘して支配を強化してきた歴史とよく似ている。それと同時に、その時々に応じて役者の身体性に左右される舞台よりも「より完璧な」「ブレのない」美的価値イデオロギーに順応した作品を作れる映像(特にテレビ)作品が時代の中心に置かれるようになったことも、恐らくはその構造的な近親性に由来しているのであろう。

 問題は、この編集作業によって提供された身体(の行為)はますます商品価値化が進行することにある。最早そこでは提供者固有の個性は如何なるキャッチコピーを用いて賞賛しても何ら意味を持たない。それは我々の前に出てくる頃には既に価値規範の決定権者たる編集者という名の主権者によって、露骨な編集を用いてであれ当人の努力に任せるのであれ、改造され、商品化されている。しかし、提供者の死は商品としての死とは必ずしも一致しない(死による美化が一時的に商品価値を爆発的に高めることさえある)。商品としての死はむしろ提供された身体が市場価値を持たなくなった時である。身体提供者は消費者から飽きられてしまえばそのまま使い古され廃棄され、そして編集者は甘言を用いてまた新しい身体提供者を勧誘する。結局、このサイクルにおいて身体提供者は本来的には誰でも良いのであって、そこで選別される基準は突き詰めて言ってしまえば改造・編集の手間が掛かるか掛からないかの一点に集約される。そして当世風の価値規範として権威付けられた身体も代替可能性からは逃れることは出来ず、再び代替可能な身体がその座に取って代わり続ける。

こうした『メディア芸術』による資本主義的人間消費の構造が加速度的に強化されマジョリティとして君臨する現代社会において、(本来の意味での)舞台芸術の取り組みは実に対照的である。そこではメディアにおいて商品価値化されるはずの身体を再び剥き出しの身体へと還元しようとする。造形美的・無機的・機械的動作は嫌われ、動物的でグロテスクな、生々しい身体の存在を観客の前に現前させる動作が好まれる。それはイデオロギー的美の完全な実現を目論む『メディア芸術』に対する身体改造限界性の主張であり、美的テロスへの前進運動の過程における商品身体の回収に対する反撃でもある。

 例えば、その一つの形が(暗黒)舞踏である。舞踏の演出においては『大衆舞台芸術』に見られるような優雅さとか美しさといった表現は一切見られない。まさに暗黒の名が示すように、そこでは身体の生々しさが前面へと押し出され、役者は地を這いずり回るように舞台(それは空間的限定を必ずしも伴うものではない)の上を動く。そこで我々が目にするのは役者の身体そのものであり、決して役者本人の身体を離れた美的テロスの片鱗などが垣間見えることはない。あるいはジョルジョ・ドンの踊りについて論ずるとすれば、彼の動きは一般的価値基準で語られるところの『天才』バレエダンサー達とはやはり一線を画するものである。彼の動きは彼自身の身体を離れたところには存在せず、常に身体と一致している。彼の踊りはまさに彼自身の動きそのものであって、それ以上の価値を見せ付けることのない踊りである。

 このように、一見すると本来的な舞台芸術は資本主義的価値規範構造に風穴を開けることが出来ているかのようである。しかし、資本主義の最も打ち破り難い部分はこうした反価値の登場において寧ろ更に強化される。つまり、資本主義は自らに対するアンチテーゼさえもその価値判断構造の内側に取り込んでしまうのであって、如何に反対運動を興そうとも、問題を提起した瞬間には既に資本主義における価値の尺度で語られる存在に落ち込んでいるのである。彼ら/彼女らの活動がどれほど資本主義の価値判断を揺るがし得るものであったにせよ、舞踏家の映像は全国波で流されたわけだし、グレン・グールドのCDは販売され続けるわけだし、ジョルジョ・ドンのDVDは販売され続けてしまうのである。

 こうした価値化の構造に常に抵抗し続け、そこから逃れるためには、舞台芸術は一瞬の隙も見せず、どうしても権威にとって都合の悪い、商品価値を付けることが躊躇われるもので在り続けなければならないように思える。つまり、資本主義が前面に出したがらない、どうしても秘匿しておきたいものを常に取り上げ続けることで、商品価値の有無さえも判断出来ない存在で在り続けることが、権威に対抗し得る唯一の手段であるように思われるのである。

 個人的な体験故一般化して語ることが躊躇われるが、私には一見完璧を装う『メディア芸術』が失墜したように感じられる瞬間が時々生ずることがある。それは『過剰演出』とか『放送事故』と言われるものであり、本来裏側に隠されていた裏方が表に引きずり出された瞬間である。あからさまな合成や映像効果、音楽番組での口パクが露呈したり不意な映像の切り替えでアナウンサーの荒々しい口調が全国に流されたりした瞬間に、私は自分自身の行いに因るものではないにも関わらず言いようのない『恥ずかしさ』を覚える。何故『恥ずかしさ』であるのか?それは見たくない、本当は隠していて欲しかったものが表に出されてしまうという現実に引き合わされているからである。しかし、本当はその『恥ずかしさ』こそが舞台芸術が常に我々に見せ続けなければならないものであり、裏方の存在を余すことなく前面に打ち出した、『メディア芸術』がどうしても隠しておきたかったものを表に引きずり出した舞台芸術こそが資本主義と結託した『メディア芸術』の構造から逃れ得る唯一のものであるはずなのだ。

 こうした「見たくない物を見せる」舞台芸術を現に実行しているグループは、やはりCUATRO GATOSくらいしか存在しないという言説は確かだろう。一般人が見たくないと思う物を題材に扱うだけであるのならば、それは『メディア芸術』にも出来ることである。しかし、CUATRO GATOSが扱う「見たくない物」というのは舞台芸術の構造に関する部分をも含むのであって、それは常にどこかで『放送事故』で在り続けているかのようである。例えば音声テープを事前の編集無しに使用し、舞台の上でズレを修正する時、一種の完成形として我々の前に提出される『メディア芸術』において編集作業は確かに存在していることが明らかになる。或いは水俣病患者を敢えて表象=再現前するそのすぐ傍で衝立の裏に患者本人を設置するという表現は、まさに『メディア芸術』の行いそのものを観客の前に剥き出しにするものであって、「見たくないもの」を「目障りのいいもの」に編集してから表に出してきた、あるいは表象=再現前の暴力をヒューマンドラマによって振るい続けてきた『メディア芸術』の従来の構造そのものを批判するものである。こうした徹底的な構造批判を為し、一時たりとも資本主義的構造に迎合することのない舞台芸術でなければ、批判装置としての価値は微塵も存在しないであろう。

 いずれにせよ、現在の『メディア芸術』が自らの求めるイデアに都合のいい物だけを取り上げ、あるいはそうでない物もそうした物に作り変えるという政治権力とパラレルな構造は、生半可な批判さえも自己の内側に予定することで益々揺ぎ無いものと化しつつある。こうした現状において、「構造的に」ドラスティックな舞台芸術のみが唯一対抗し得る存在として価値のあるものであるということを我々は知識として習得していなければならない。さもなくば、当たり障りの無い、気持ちの良い演出の虜となり、そこで捏造された新しい価値規範に常に流され続け、同調するだけの放送=権力に対するイエスマンとして我々は存在を予定され、生かされ続けるだけの者に成り下がってしまうであろう。



CUATRO GATOS

top  □news  □performances  ■text archives  □blog  □contact us