2005年10月
クアトロ・ガトスの不都合
森下貴史(シネフィル)
1.
例えばオスト・オルガン論なら書けと言われれば一日で書くことが出来るし、浜島嘉幸のパフォーマンスも観る度に「やはりまた傑作を観ることが出来た」と安定した充足を得ることが出来る。彼らの作品は正しくあろうとして実際に正しい。しかし「廃業」以降のクアトロ・ガトスはどうか。
書きにくいことはなるべく書かないこと。その「ゲームの規則」を律儀に守り続けることが批評家の在るべき姿なのだと雑誌『舞台芸術』は伝えているように思う。様々な批判があろうが『舞台芸術』は彼らなりに正しくあろうとして実際に正しい。様々な政治的劇団・グループのために『舞台芸術』は多くのページを割く。しかし「廃業」以降のクアトロ・ガトスにはどうか。
正しくあろうろして正しくない作品を作り続けること(しかし、無自覚にそうなのではない)。そしてベケット的「貧しさ」へと向かわず、故にラディカルな批評家に快い擁護も約束させないこと(そう、モレキュラーは快い)……。現在クアトロ・ガトスほど語りにくい存在はないと思われる。井澤氏が9.15教室パフォーマンスを否定したのも故なしとしない。しかし、人は清水の動機を言うことが出来るだろうか。なぜ彼が「退屈」しないのか明晰に語ることが出来る者がいるだろうか。
スローターダイクの『シニカル理性批判』における「シニシズム」を「退屈」と言い換えてみよう。
浜島はローカルという具体的対象を持つことで最終的な「退屈」を免れている(無論これは批判すべき問題ではない)。「純愛」海上は性の対象を直接的に問うことで「退屈」を免れている(無論これは批判すべき問題ではない)。グローバルなリベラル・シネマ・アーティスト森下は「金を稼ぎまくる」という資本主義的「退屈」予防作を目標設定することで「退屈」を回避している(無論これは批判すべき問題ではない)。中原昌也は書き飛ばすことで「退屈」を苦し紛れに逆手取る(無論これは批判すべき問題ではない)。豊島重之は芸術=無意識を先取りして措定することで「退屈」を消している、、、あるいは充実という対語が存在するようなレベルの退屈に留まっている・演劇に留まっている(この意味で豊島は正しく業界的に振る舞っているのだ。無論これはさしあたり批判すべき問題ではない)。
しかし清水唯史はどうか。
海上宏美が廃業したのが芸術というより「退屈」であるならば、今思考すべきはなぜ清水は最終的に「退屈」しないのかの一点にある。その一点を回避する限り、いくらブレヒトの今日的意義と言ったところでそんなものは朗らかな抽象にすぎまい。
2.
皆正しくあろうとする。サブ・カルチャーや「ゴミ」という文脈で語られもする、一都市レベルでは世界最高数の劇団数を誇る「東京演劇」もまた、機能的にみれば「趣味的連帯感の確認の場」という意味で正しくあろうとして実際に正しい。ならば、演劇批評家の語るべき主題足りえるのは正しくあろうとして正しくあれないクアトロ・ガトスのような存在のはずなのに誰もそのための努力を準備しようとしないのは何故なのか。そこには多くの「クアトロ・ガトスの不都合」と呼ぶべき問題が存在するように思われる。
クアトロ・ガトスの「正しくあろうとして正しくあれな」さ加減が、決して「過剰」といった称賛語では語れぬ点がまず一つ目の「クアトロ・ガトスの不都合」であろう。例えば70年代ハリウッド映画のような「過剰さ」、つまり作品が、観客に届くために持っていなければならない技術的水準を遥かに超えたものある瞬間<持ちすぎる>こと。そのようなものがあればクアトロ・ガトスはとりあえずいまの批評家たちから適当な努力を引き出せるはずだ。しかし身体=言語、演劇・パフォーマンス=言語だという態度を維持する清水は、「過剰」などそもそも存在しないのだと律儀に正しくあろうとする。その素っ気ない態度を維持し続ける体力を他に誰か持っていただろうか。海上宏美も豊島重之も「キャラ」あるいは語り口というレベルで、作品の外で、「過剰」という安易で失礼な語は付けなくとも確かに独特の省略と飛躍を駆使したあの話術で「文学」を批評家連中に対する商品価値にしていたことは端的な事実なのである。これまで彼らの活動の方がクアトロ・ガトスのそれより多くの紙面を割かれていたのはおそらくそうした事情による。これが二つ目の「クアトロ・ガトスの不都合」である。三つ目の「クアトロ・ガトスの不都合」として、解体社のようには形式と政治の、言い換えれば原理と欲望の一致がクアトロ・ガトス作品では果たされないことを挙げよう。解体社もまた正しくあろうとして実際に正しい——「正しくあろうとして正しい」は批判語ではない、為念。清水唯史が好むと好まざるにかかわらず、形式と(狭義の)政治の、原理と欲望の正確な不一致こそが「廃業」以降のクアトロ作品そのものの大きな特徴となっている。清水は形式の徹底から降りて(狭義の)政治的主題に降りたのだとは単純に言えない理由がそれである。しかもその不一致が「差異」として、ポストモダン的な彩りとして作品を分かりやすいものには決してしないことが「不都合」を「不都合」足らしめているのだ。四つ目は
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※批評家は、三つ目の「クアトロ・ガトスの不都合」に特に集中すること。