2005年10月


勅使河原三郎さんのダンスについて


宮下直紀(中央大学経済学部4年、[rest/labor]出演者)



 勅使使河原三郎さん(以下、敬称略)の舞台からは、観衆にとってはお節介な程の夥しい呼びかけが聞こえる。そのわれわれへの呼びかけは次のことを企図しているのかもしれない。つまり、われわれの思考力を賦活させることによって、われわれの制度化された意識を、現行の制度に縛られることのない、神秘という宗教的次元に一旦退避させ、その場所で新たなゲシュタルト世界を自由に産出させることを企図しているのかもしれない。だが、その勅使河原の試みは、少なくとも私に対しては失敗している。呼びかけがうるさすぎるのだ。うるさすぎて、私には、意味を独自に創り上げる自由は、保証されない。「理想的なもの、尊敬すべきもの1」が現前する場所では、彼による一つの統合された表象のみが生起することを許されるのだ。

 われわれが、各自に設定されたゲシュタルトを反転させるきっかけを作り出す意味を産出するためには、思考の中の「意味の微分的な動きや虚無の流れ2」が作動しなければならない。そのためには、意味生成の始まりのきっかけとしての、あらゆる可能性を内包している種としての表象を芸術家に与えてもらうだけで十分であるはずである。そうすれば、われわれが意味を展開するために持っている微分素を、その種に反応させることによって、自由に意味を産出することができるからだ。しかし、勅使河原の舞台から押し寄せる膨大なイメージは、われわれの思考の中に侵入してきて、彼の言うところの「理想的なもの、尊敬すべきもの」の表象を、種の発芽に先んじて打ち立てる。舞台からの実定的なイメージが、何の慎ましさも持たずにわれわれの思考に侵入し始める時、われわれのなかにある意味生成力をもった微分素は、その侵入者に対して、全く呼応するようには思われない。なぜなら、その侵入者は最初から統合された意味を持っているので、われわれの持っている意味生成の原材料としての微分素とは対話することができないのである。対話が行われて意味を生成する運動が始まる代わりに、侵入者が微分素を暴力的に飲み込みながら、自らの複製物を作り出すことに成功してしまう。

 しかし、制度化された美の表象・再現前化を行う芸術でも、われわれを不断の意味生成が行われる場所に導いていく可能性を持つのではないか。なぜなら、表象された美は、独力での完全な表象・再現前化が常に失敗することを自覚しているからである。「表現性は、事実上は、人がそれを欲しようと欲しまいとにかかわらず、またそれを知っていようといまいとを問わず、つねに超出されている。いわゆる(「表現」されるべき)「意味」が、すでに徹頭徹尾、諸差異の織物から構成されているかぎりで、言いかえればそこにはすでに一つのテクストがあるかぎりで、つまり「単純な」と称せられる各「項」が他項の痕跡によって標記されているようなテクスト的変形があるかぎりで、意味という想定された内面は、すでにそれ自身の外部から働きかけられているのである。その内面はつねにすでに自己の外へ赴いている。その内面は、どんな表現作用よりも以前に、すでに(自己から)差延的である。3」

 いかなるものも差延と間隔化に先行しないのにもかかわらず、勅使河原の舞台が表象する美の場合には、なぜこの法則に対して例外的であるように思われるのだろうか。つまり、なぜ、「意味という想定された内面」は、「それ自身の外部から働きかけられ」、「つねにすでに自己の外へ赴いている」ように感じられないのだろうか。私には、その原因が、現前させられた美は、その本質としては差延的で、外部へと差し向いているにも関わらず、その働きを殺してしまうような仕掛けが、彼のダンスの中に組み込まれているためであるとしか考えられない。彼の表象する美は、自らを超越論的シニフィアンであると宣言して、観衆に絶対的認識の場にいるという錯覚を抱かせるのではないか。

 舞台を鑑賞する時、われわれは、統合された表象であれ、意味生成を作動させる微分的な意味素であれ、それらを、光や音を媒体として感覚することにより、脳の中で表象を打ち立てたり、または、表象を壊乱させたりといった、心理的な活動を行っている。「そのため、所記的対象、意味、ないし概念は、権利上、この移行過程および能記的操作から分離可能なものと考えられている。4」そのため、舞台上で行われるどんな記号作用でも、このような心理的な過程を経る方法に拠っている限り、観衆への翻訳可能性を前提としているはずである。だから、演劇者も観衆も、形而上学的モデルに依拠しなければならない。われわれ人間は、美の「位置ずらし」をするために、一旦、この形而上学的モデルを担保としなければならないのである。

 しかし、ここで重要なことは、われわれがこのモデルの同一性を忘れ、自己の外へと差し向いていかなければならないことだ。それにも関わらず、勅使河原の場合は、このモデルに、完全に依拠してしまっているのである。西欧形而上学によって、強力に組織化された美への位置ずらし、差延化を徹底的に怠ることによって、彼は、美の、来るべきものを求めて外部へと差し向いていくという本来的な動きを阻害している。そこでは、「美のイデア」のみが現前し続け、観衆はそれへの帰依を誓い、自分が絶対的認識の場にいると錯覚してしまうに違いない。そんなカルト宗教のような状況が作り出されてしまう原因を作っているのは、具体的には、彼が踊っている時の表情、つまり、なにか絶対的なものを、「今、ここで」降臨させているかのような、苦しそうで、気持ちよさそうな表情の仕業ではないだろうか。私は、上演の最後の方で、音楽が忙しい調子になっていくにつれて激しい動きになる彼に、それを認めたのである。

 構成された意識の下方で流動している無数の意識体系の中から、一つを、観衆に垣間見せることによって、日常的意識の根本にあって、絶えず意味を産出している潜在的無限性の存在を意識させ、そこから不断に湧出してくる数々の意味世界に触れるという運動へと観衆を送り出すことと、一つの意識体系が超越論的認識の場であると信じ込ませ、そこに留まらせ、自足させることには、大きな違いがある。前者はわれわれを意味生成の場に連れて行き、様々な存在の仕方を創設する可能性を作り出すものであるが、後者は自らの内になんの批判性も抱えない、排他的で、硬直した世界の中にわれわれを幽閉するものである。勅使河原の企ては、観衆へのお節介な程の夥しい呼びかけとあの表情によって、後者のものに堕している。

 そこで行われることは、極めてキケンである。なぜなら、どんな世界よりも高尚な場所に作られた、いわゆる超越論的な地平に辿り着いたという錯覚を覚えた者は、その社会システムを全面的に信頼しながら(思考を停止させながら)、権力を再生産し続けることに寄与してしまう観衆となってしまうからである。観衆は、制度や権力、文化に対して柔軟に適応することによって、法則を壊乱させるいかなる出来事も排除しながら、それらを強固なものとし、硬直させることを手伝ってしまう。例えば、彼らは、行為遂行的な暴力によって打ち立てられている法に、自分が遺棄されていることに気づかないまま、また承知しながらも(なぜなら、彼は法以外の最終審級に基づいて行動することもできるからである)、人を裁いて、正義を到来させたと考えてしまうのだ。

 われわれの思考は、社会のシステムに深く繋ぎとめられているので、設定されたゲシュタルトをなにか違う次元へと反転させるための力は脆弱である。だから、勅使河原のいうような「理想的なもの、尊敬すべきもの」といった非日常的世界を現前させて、われわれの硬直した意味世界に衝撃を与えることによって、不断の意味生成をおこなう運動の軌道にのせることができるかもしれない。勅使河原にとっての「理想的なもの、尊敬すべきもの」が、われわれの思考に自分の複製物を作り出し、打撃を与えて、思考のインプロヴィゼーションを働かせることができるかもしれない。しかし、それを成功させるためには、われわれが、自分の中に複製された、「理想的なもの、尊敬すべきもの」が全く超越論的認識とは無縁であるということを自覚しなければならない。なぜなら、その新たに打ち立てられた世界に自足してしまうことは、自分が、以前囲まれていた世界の硬直性から逃れられなかったのと全く同じ状況に陥ってしまうことにほかならないからである。

 だが、「理想的なもの、尊敬すべきもの」が、仮に、自分はえせであると、ふざけながら宣言していたらどうであろうか。自分が今から打ち立てる美の世界は、絶対的価値を持ったものや最終審級などではなく、形而上学のモデルに仕方なく依拠しながらカオスの中から抽出した、ある世界に過ぎないと宣言しながら侵入し、楽しさを与えてきたら、われわれは、絶対的な美など現前しないということを信じながらも、他の美の世界、そこでの楽しさを求めて、終わることのない旅に出掛けることになるのではないだろうか。ふざけながらやってきた世界の美に触れて味わった恍惚を、また違う世界に求めて、様々な世界=物語を転々と巡るかもしれない。そして、われわれは、数々の異世界=物語を発見し、それらを相互に関連づけることによって、いつしか、自分が意味産出の場、差異の戯れの只中にいることを自覚するかもしれない。自分が様々な物語から物語へと放浪している動きそれ自体が、脱構築的になっているかもしれない。

 しかし、勅使河原にとっての「理想的なもの、尊敬すべきもの」の表象は、私に恍惚を与えてはくれなかった。それは、そんなにふざけたものではなかった。それは、真面目な顔をした、改宗など絶対に許さないような教祖だったのだ。私は、その理由を、われわれを高揚感や恍惚感へと導くような、楽しさがなかったからだと考える。彼の演劇は、私をさまざまな意味へと差し向ける原動力となる楽しさをもっていないのに、われわれの思考に遠慮なく表象を打ち立てる方法を採っているので、私は、外部へと差し向いていくこともできず、自由に意味を産出することもできなくて、困ってしまった。物語を巡る旅の玄人、脱構築的な思考のできる人であれば、どんなにつまらないものでも歓待できるのであろう。しかし、永遠に彷徨い続けるその旅の始まりが、つまらないものであったなら、旅に出る気さえ起こらない。私に侵入してきたそれは、われわれの思考の中で働いている、意味の微分的な動き、虚無の流れと対話してそれらを組織することにも、また、珍しくも、自らを超出することにも失敗した、暴力者の姿であった。


1.KANAGAWA ARTS PRESS vol.65 July ,2005 2頁

2.ジュリア・クリステヴァ 原田邦夫訳 「記号の解体学‐セメイオチケ1」せりか書房 1983年

3.ジャック・デリダ 高橋允昭訳「ポジシオン」青土社 2000年 50頁

4.前掲書 37頁


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