2005年10月


劇評 [rest / labor]


宮下直紀(中央大学経済学部4年、[rest /labor]出演者)



 彼らは、まるで動物のように、自分たちのしていることに夢中になっているようである。彼らは何かを成し遂げようとは考えていないに違いない。なぜなら、文字を映し出している機械をいろいろな壁に向けたり、リモコンを交換したり、Tシャツオブジェを動かしたりしていて、一体何になるのだろうかということを考え出したら、忽ち、何でそんなばかみたいなことをしなければならないのだろうと思ってそれらの労働をやめてしまうだろうからだ。ただ、舞台上の俳優たちの動きをみていてわかるのは、彼らが何らかの目的を実現するのを待ちながら、その実現するのだという欲望に従順になって、フレキシブルに、合理的に働いているということである。しかし、それが一体何になるのかがわからない。舞台上に現れる、観ているだけでも居心地の悪そうな世界の異様さは、ひたすらそこに居続けて、いつまでたってもなにもかも一向に良くならないようだし、気持ちの悪いTシャツオブジェはどんどん増えて、観ている側からの視界も悪くなる。それにもかかわらず彼らは働く。

 彼らはなぜこんな気持ちの悪いTシャツオブジェを増やしながら、何になるのかよくわからない作業をしているのだろう。彼らが産業の目的へと方向付けられた情欲に突き動かされながら、機械のように働いているとすれば、この舞台上の全体的な気持ちの悪い雰囲気は、私たちが感じている産業社会の気持ち悪さということになるだろうか。

 産業の次元が情欲の次元を取り込むために、情欲に持ちかけるシミュラークルには情欲の延期という条件が付いている。延期された情欲のために私たちは働いて、給料を得る。給料を貰ったら、それをできるだけ残しておくといいらしい。お金を蕩尽してしまったら、罪悪感が残るらしいし、明日がなくなるらしいから、私たちは、自ら情欲を延期する。さらに、我々は、目的を設定して、それを実現しようとしなければならないらしい。そのためには、未来のことを考えて、パソコンや中国語を習いに行かなければならないらしい。そうして、情欲の延期という条件を飲んで、それを楽しみにしながら産業の次元に従っていってみると、おあずけにされていたものとは、実は産業社会によって方向付けられ、縮減され、表象された衝動だけが志向することのできるシミュラークルでしたということになっている。産業社会が差異化したシニフィエに過剰するシニフィアンを本源的に抱える私たちは、そのつまらない去勢されたような情欲では満足することが出来ない。また、現代産業社会のイデオロギーが、世界に撒き散らしている毒を目にしたりして、産業が差し向ける情欲を志向することを拒否したくなっている。私たちはまったく騙されてしまったのだ。

 この騙されている過程のばかばかしさやそのばかばかしいことの暴力性こそ、私が感じた舞台に漂う居心地の悪さや、気持ちの悪い雰囲気ではなかったか。そこでは、本来は交換不可能であった倒錯的ファンタスムが産業の目的や欲望へと方向付けられ、交換されるときに、どうしても現れ出てしまう居心地の悪そうな雰囲気が表象されていたのである。メディアが、世界は順調に回っていると演出したり、成功物語を撒き散らしてがんばっても、その気持ち悪い雰囲気は隠せない。そして私は、自分も交換不可能な倒錯を抑制する常識という名の点滴を打たれながら、ああいったばかみたいな動きを社会の中でやらされているのだと思い知らされる。リモコンを交換して、Tシャツオブジェの位置を気にして、窮屈な部屋の中に入り、倒れるように寝てはすぐに起きる。すると、またすぐに同じことを繰り返すのだ。産業の詐欺に遭ったのだという被害意識が、私を襲った。しかし、産業社会に放り出されて、騙されてきた「無辜の私」は本当に無罪で、ただの被害者なのだろうか。

 さっきまでの俳優たちのパフォーマンスの映像が、小部屋の客席側の壁に投射されると、舞台上の現在が過去とまぜこぜになり、その時間性が未来さえも取り込んで、それを無化し始める。すると俳優たちは未来を失い、産業に方向付けられていた、目的性をもった欲望の矢印は捻じ曲げられて、倒錯的になる。方向を失って迷路のようにぐにゃぐにゃになった時間性の中で、シミュラークルによって見えないところから人形のように操作されていたナンセンスな労働は、そのまま革命的なものへと変わっていく。二人は、小部屋に閉じこもって、チョークを壁の表層に滑らせて遊んでいる。彼らは、抑圧されていた欲望を解放し、表層のナンセンスが新たな意味生産を始めるのを楽しんでいるのだ。四人の俳優たちのそれぞれ特異性をもった労働は、まるで協働しているかのように革命的な意味を生産している。他の二人はといえば、さまざまな道具を片付け始め、舞台を空っぽにしてしまう。そして、ついには舞台上の端の方で、なにもせずに突っ立っているだけになるのである。

 彼らの、外的束縛から解放された倒錯的な動きは、クロソウスキーによって言われる、産業が個人の情欲を形成するときに用いる脅し、恐喝つまり、「生命維持の必要性と、生命維持が保証されたところからはじまる享楽のあり方」を規定する起源のものに怯むことはないようだ。そう思ったときに、私は、暴力と法権利を強力に繋ぎ合わせておくことに寄与してしまう、みずからの剥き出しの生としての有罪性を、彼らに指差されたような気がした。私は、まったく無辜ではなかったのである。

 目的論的思考をやめようとしても、歴史時代にある現代社会は目的に向かい、未来に向かって進もうとしている。私はその社会と関わらないでいると飢えてしまうから、そこから完全に離れて生きることは出来ない。さらに私は、自分のことを内観し、抽象化してそれを概念として取り出したうえ、物語化する自意識過剰な種であり、またそれゆえにホモサケルであるから、未来が見えてしまう。舞台上の俳優のように倒錯的で、完全な無為でいることはできない。しかし、その無為でいるということを、産業に対する戦略の、一つの重要な原理として、もしくはそれを基底として組み入れることができるだろう。クロソウスキーは「経済的諸規範が、芸術や道徳的・宗教的諸制度と同じ資格で、認識の諸形態と同じ資格で、衝動的な力の数々が表現され表象されるひとつのあり方」であり、また「われわれの前にある諸力…それら諸力が最初はとくに経済的諸規範にしたがって現出するのだとしても、それら諸力はおのずから、自分自身を抑圧する仕組みを作りだし、そして同時に、自分がさまざまなレベルで受ける抑圧を破壊する手段をも作りだすのである。そしてそれは、諸衝動の戦いがつづくかぎりつづく。」と述べて、われわれの諸衝動の可塑性を「普遍的コミュニケーションを手にする」ための可能性として提示している。だから、剥き出しの生を生きてしまう私は、倒錯的で完全な無為でいるということができないかわりに、規範を可塑的に作り変えていくための、ひとつの原理を叩き込む鉄槌として、その方法を、できるだけ取り入れてみようと意志したのだった。

 そのような反省の後、私の有罪性はいくらか慰められることになる。清水は、剥き出しの生の有罪性の遠因である表象システム、それが権利上持っている暴力を行使するのだ。つまり最後に、恥ずかしそうに小さな音量で、「美しい」音楽が流れてしまうのである。だが、舞台上の俳優たちの無為と倒錯が支配する空間を「美しいもの」にしてしまうペンギン・カフェ・オーケストラの音楽は紛れもなく有効なのだ。なぜなら、バトラーによれば、「パフォーマティヴなジェンダー行為こそ、身体やセックスやジェンダーやセクシュアリティというカテゴリーを破壊し、二分法の枠組みをこえた攪乱的な再意味づけや、意味の増殖の契機を提示するものなのである」し、これは「諸衝動の戦い」なのだから、オルタナティブな倒錯的ファンタスムにも武器を持たせなくてはならないからだ。規範に揺さぶりをかけること、トラブルをおこすことの有効性を主張するかのように流れる音楽は、みずからの現前させる美しい場所が脱構築可能であるということを、標すのを忘れない。「他項の痕跡によって標記されているようなテクスト的変形がある」美しい織物のような音楽は、みずからの内面性を超出する準備を怠っていないのである。こういった「美しい」音楽を清水に使わせたのは、彼に、危険な賭けだとしても、「公共圏において教育を施すこと」を選ばせるというあのベンヤミンなのだろうか。

 この衝撃的な上演が終わったあと、その無意識のなかに散りばめられた表象の種を、自分自身の妄想的な思考によって発芽させていったとき、私は、「仕事・家庭・大型テレビ・洗濯機・車・CDプレーヤー・電動缶きり・健康・歯科保険・在宅ローン・レジャー服・スーツ・日曜大工・クイズ番組・子供・散歩・ゴルフ・洗車・セーター選び・クリスマス・年金・税控除・掃除し日々を送り寿命をまっとう」の内、いくつかを捨てきれないと、またいくつかを拒否することを決心したのだった。


CUATRO GATOS

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