2005年4月


無題


黒沼雄太(中央大学総合政策学部3年、CUATRO GATOS準構成員)



『過去の真のイメージは、ちらりとしかあらわれぬ。一回かぎり、さっとひらめくイメージとしてしか過去は捉えられない。認識を可能とする一瞬をのがしたら、もうおしまいなのだ。』  ヴァルター・ベンヤミン


以前、とあるサイトで、イラクで遺体となって発見された香田さんの斬首映像が公開されているのを見つけた。その時点ではまだ生きていたかもしれない香田さんの首を、犯行グループが鋭利なナイフでぐいぐいと切り取るその映像は、見ているこちらに不快感を覚えさせるのに十分すぎる強度(intensity)を持っていた。事実、一緒に映像を見ていた友人は数分が経過しても頭に残る不快感を拭い去り切れずにいた。


大方のマスメディアはこの事態を言語や文字によって次のように表象(represent)していた。【先日、香田さんが犯行グループによって首を切られる映像が一部インターネット上で流出しました。】この一文によって拭い去れないほどの不快感を得る人など、いったいどれほどいるだろうか。この一文に私たちが見た映像ほどの強度が無いということはすぐにお分かりいただけるかと思う。同じ事態を表象した両者におけるこの強度の差はそのまま、互いの表象行為(representation)の持つリアリティ(≠リアル)の差によっている。


ドイツの哲学者、カント(1724〜1804)の用語であればおそらく、リアルに対応する言葉は「もの自体」であろう。「もの自体」とは「対象のあるがままの姿」のようなものである。カントによれば、人間は「もの自体」をそのまま知覚することはできない。人間の知覚は、感性というフィルターを通して己の中に映る「もの自体」を悟性によって理解可能な形に加工するという行程を持つのだ。


哲学者であり、禅の修行者でもあった西田幾多郎(1870〜1945)は、「真の実在(リアル)」とは何か、という問いに対する答えとして「純粋経験」という概念を用いた。「純粋経験」とは、「主客未分(主観と客観とがまだ区別されない)」の具体的・直接的な経験で、我(自我)と物(対象)の対立・分離以前のもっとも根本的な経験のことだ。


西田にとっての「純粋経験」をカントの言葉で言うならば、「感性によって物自体を感じている瞬間」であろう。そして西田の言う「我と物とが分離する瞬間」とはカントの言う、「人間の悟性が働きだす瞬間」である。


これはつまりこういうことだ。例えば僕が、大好きなミュージシャンのライブに行ったとする。演奏の最中、僕はその音楽や会場の雰囲気に酔いしれる事だろう。数日後、友人からライブの様子を詳しく説明してくれるように頼まれた僕が、当時の様子をなるたけ正確に伝えようとする。演奏の最中の僕が「純粋経験(リアル)」の真っ只中にいる僕。そのライブのようすを説明しようと試みる瞬間が、「語る僕=自我」と「語られるライブ=対象」の分離が生じる瞬間である。


さて、ここで一つ問いを投げかけたい。この時僕が、ありとあらゆる表現を駆使してライブの様子を友人に表現したとする。その時、僕の説明と、ライブで僕が感じていた様子とが、寸分の狂いも無くピタリと一致する事はあり得るだろうか?


おそらくそれはあり得ないであろう。これは、「リアル」と「時間(time)」との間に深い関わりがあるからだ。


リアルの中にいる人間とは言い換えればつまり、「現在(present)」の中にいる人間である。現在とは常に、間を持たぬ一点である。したがって、人間があることに関して語るということは、かつて現在であった過去を「再び(re)」「現在(present)」に呼び戻そうと試みるということである。これが「表象行為(representation)」だ。しかし、「現在(リアル)」とは一回性のものであるが故に、その完全な呼び戻しは不可能である。したがって表象行為の結果が、表象しようとするかつての現在(リアル)と一致することはあり得ず、そこには必ず「ズレ」が生じる。この「ズレ」の幅が小さければ小さい「表象行為」ほど、高い「リアリティ」を、もつということになる。


人間にとってリアルとは永遠に「表象しきれぬ残余」でありつづけるのだ。そしてまた、その不可能性こそが表象行為そのものを成り立たせると言えるのかもしれない。


例えるならば、人間が己の遭遇したリアルを表象することとは、そのままでは食べられない「生のもの(primitiveness)」を食べられるように「調理する(cook)」ということなのだ。


これは、何らかの「文化」について語る時や「他者」について語る時、あるいは「自身の記憶」について語る時にも成り立つと思われる。


しかしこのこと自体は、ポストコロニアリズム思想(post-colonialism)や構造主義思想(structuralism)、ポスト構造主義思想(post-structuralism)など①(もしくはそれらの影響を大きく受けている人物の語りや書物)に、ほんのちょっとでも触れたことのある人なら、もはや当たり前のこととして認識されていることだろう。いや、時代の風潮としての社会的意識として、今や僕の属する文化態の中の多くの人が当たり前のこととして認識しているといっても過言ではないかもしれない。


①各思想領域の代表的人物とその著作で、今日の文章のコンテクスト(文脈)を考えた上で挙げるならば、

・ポストコロニアリズム

E.W.サイード「オリエンタリズム」「文化と帝国主義」、F・ファノン「黒い皮膚、白い仮面」「地に呪われたるもの」、G・スピヴァク「サヴァルタンは語ることができるか」など。

・構造主義

ロラン・バルト「エクリチュールの零(ゼロ)度」、J・ラカン「精神分析における語りと言語の機能と領野(エクリⅠ所収)」など。

・ポスト構造主義

M・フーコー「性の歴史」「言葉と物」、J・デリダ「グラマトロジーについて」など。


しかしながら、このことを逆手にとって、「全ては嘘っぱちだ!」(「全てはイデオロギーだ!」とか「全部幻だ!」とかでもよい)という手法によって、ありとあらゆることに対し批判的(と呼ぶにはあまりに稚拙な手法ではあるような気はするが)な態度をとることは、かつての学生闘争時代の大部分のマルクス主義者(≠マルクス)のようにあらゆるものに「抑圧的な権力(フーコーの使う権力という概念とは区別する)」というレッテル貼りを行いそれに抵抗する、というような、非常に袋小路的な思考に陥ってしまう。それはかえって自ら盲目に向かって突進していくようなものではないだろうか。


「私」や「私たち」は、身体的無意識(あるいは「自動的自動性」「自然」「母胎」「死の領域」「リアル」とも呼べるだろう)の層の上で生じるさまざまな差異の中で生を営んでいる。それはもはや認めざるを得ないことではないだろうか。


そのような事実を「暴力的」「忌むべき他動的自動性」として徹底的に否定したいということは、あらゆる「意味づけ」を拒否することだ。それは何も語らず(表現せず)、何も問わない。完全なる「無為」の状態、「絶対的受動性」とでも呼ぶべき常態へと至ろうとする行為だ②。


②その意味で、原始仏教思想はこうした状態を積極的に目指そうとする、つまり「社会的」には「何の役にも立たない」人間となろうとするという超ウルトラハイパー自然主義。ものすごくラディカルで対抗文化的な思想であると言える。ちなみに仏陀は死の間際に「これより私は涅槃(ニルヴァーナ)に入る」と言ったと伝えられている。涅槃とは完全な心の平穏が続く状態のこと。何者にも害を与えず、何者からも害を受けない、完全な調和の中に抱かれている状態。別名「悟りの境地」。これはつまり、「死」の直前までは涅槃に入っていないということ。仏教を聖典のように掲げる「自称エコロジスト」の皆さんにはこの辺をすこし意識してみることをオススメしたい。

これに対しキリスト教(≠イエス)の聖書では「右の頬をうたれたなら、左の頬を差し出せ」という。重要なのは「何もするな」とは言っていないこと。ここからは強力な復讐思想(ルサンチマン)が滲み出ている。ニーチェなんかはこの辺に執拗にこだわっている。彼はとてもブッダ的な人だったのだと思う。それは晩年の多くの文章の中から伺える。

最後に蛇足。以上のことを踏まえた上で、「非暴力、不服従」を唱えたガンジーの立場というものを考えてみると面白い文章が書けるかもしれない。


もしそうしたいのであれば、最も手っ取り早い方法は「社会的人間」をやめて「剥き出しの生」の中に身をゆだねてしまう事だ。具体的な方法として、精神分裂病になる、無人(もしくは無法)地帯で単に/野性的に生きる、ドラッグ漬になる、死ぬ、などが挙げられる③。僕は本気でそうなることを望む人を否定する気も邪魔する気も無い。


③いずれにせよ現代先進文明社会の内側の社会の中ではかなり「あぶない」類の行為とみなされるものばかり。


さて、しかしながら今、少なくとも僕はまだ社会的/文化的な生を捨ててはいないし、捨てる気にもなれない(でもぶっちゃけ少し前までは本気で捨てることを考えていた。苦笑)④。さらに言うならば、放っておいても僕らは皆、いずれ、例外なく、宇宙(ガイア)に食われるのだ。


④もっとも、単に/野性的に生きようとすることは現在ではかなり難しいと思われる。なにせ世界の何処に行っても、もはや「国境の外」は存在しないのだから。


僕は服を着るし(羞恥心)、僕は布団で寝る(睡眠欲の文化的加工)。僕は生の食材(そのまんま)を調理したもの(皮をむいたジャガイモ、マグロを解体した刺身なども含む)を食べるし(食欲の文化的加工)、僕は他者をレイプしてまで射精をしない(性欲の文化的加工)。おそらく文化とは人類の「精神の生態系」の深いところからやってくる第一次的欲求の激しい衝動に対する数々の安全弁の複雑に入り組みあった総体のようなものなのだ⑤。


⑤フロイトの説いた、個人のエス(es)に対する超自我(super-ego)の働きと対応しそうだ。エスとは、性的衝動を中心とする本能的なエネルギー=リビドー(libido)がたくわえられた無意識の部分のこと。超自我とは、両親のしつけなどから社会的な道徳が心の中に取り入れられて形成された良心のこと。この個人の精神のあり方と、文化の機能の対応性を見ると、おもわず「一即多、多即一」と呟いてしまいそうになる。


そのような僕、社会的な生を、主に書物や音楽や映画(どれもなんとも「文化的」なこと!)に触れながら生きる僕にとって、今すべき(したい)と感じられることは、僕の生きるファンタジーのマトリックス内で渦巻く諸力に対する絶対的嫌悪や完全否定ではなく、かといってニーチェがそうできたらいいのにと「祈った」ような、ありとあらゆるものの完全肯定でもない。M・フーコーが「権力(power)」というものをポジティブなものとして捉え直そうとしたまなざしを受けとり⑥、そうしたまなざしを基にして、文化の表層で激しく渦巻くもろもろの諸力の絡み合いから、「歴史」よりも深い、最も底の部分を怖ろしくゆったりと流れる不可視の「時そのもの」(それはおそらく「垣間見る」事しかできない)の力までに張り巡らされた力同士の「関係性」に関する思考だ。それは思考が「後から追って」でしか不可能なものかもしれない。


⑥M・フーコー(1926〜1984 仏 )の使う権力(power)という概念は、旧マルクス主義(マルクスではない。これ大事。)の言説(discourse)の文脈で使われるときの政治・行政的な抑圧的権力のことではない。そうではなく、個人の社会的な生のあり方(価値観と言い換えても大過は無いであろう)を作り上げるもろもろの力総てを意味する。「権力はあらゆるところに偏在している」のだ。ちなみにフーコーのなくなった年は、僕(たち)の生まれた年。えへ。


これの試みはおそらく「完全なる客観性」、「言語によって全てをあらわしきること」、「永遠普遍の真理」を目指すというような形而上学的なものではない。そうではなく例えば、僕が「異」文化に関して語ろうとする時、表面的にはその文化について語っているのだが、その内容は、必ず語る僕を包括する集合文化的な意味の層=自文化の層によって支えられている。したがってその「異」文化に関して語ろうとする時、必然的にその語りは「自」文化についての何かを語ってもいる⑦。ということを認める立場だ。そこで想定されるのは「裏側」の存在しないメビウスの輪、あるいは、延々と表だけの絨毯のような「人間の活動が生み出され、再生産されていく共通の場」⑧だ。仮に「完全なる客観性」と言う名を何かに与えるというのであればそれは、死してようやく涅槃に至ったブッダによって象徴され得る「ありとあらゆる物事の過程それ自体」にこそ相応しいように思う。


⑦J・P・サルトルに体現されていたの西洋の異文化理解を批判したC・レヴィ・ストロースにしてもこの例外ではない。

⑧「」内の言葉はE・W・サイードのもの。


駱駝から獅子へ、獅子から赤子へ。パラノからスキゾへ、スキゾからノマドヘ⑨。


⑨前者はニーチェ「ツァラトゥストラ〜万人に与える書、何びとにも与えぬ書〜」より。後者は浅田彰「構造と力」より。両書は(特にツァラトゥストラは)文化状況に対する予言書的なものとして読むと大変興味深い。ニーチェ思想に関する入門書兼優れた研究書としては、永井均「これがニーチェだ」(講談社現代文庫)を推薦する。


忍耐と獲得への欲望から意味づけへの欲望へ、意味づけへの欲望から戯れへの欲望へ。


プロテスタンティズムの倫理が資本主義を大きくジャンプさせ⑩、アメリカサンフランシスコ発60年代カウンターカルチャーが資本主義をハイパー資本主義にジャンプさせた⑪。


⑩マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

⑪佐藤良明「ラバーソウルの弾み方〜ビートルズと60年代文化のゆくえ〜」


それからさらに時が流れ、インターネットを中心とするサイバーネティックス技術はさらに大きな広がりを持つようになった。「自己」の希薄化は進み続ける。細分化され続ける学問領域と共に洪水のように出版され続ける書籍。もはやポータブルどころか、どこでもドア的に触れることが可能になってきている音楽。どんどんDVD化されてゆくあらゆる時代の映画作品。現在の文化はいったいどのような状況になってきているのだろうか?


ある程度の想定はあるものの、具体的にどのようなことをどのように思考するかについてはまだ検討もついていないが、ここに書いたようなことを頭において卒論を書き上げたいと思う。何かを「書く」ために必要な土壌作りに最適なのは、もちろん何かを「読む」ことだ。そこで、これからしばらくは、現在の文化状況を思考するために有効と思われる思想を提供してくれていると思われる未読・既読の先人たちのテクストをピックアップして少し丁寧に読み進めようと思う。以上が僕の現状報告だ。


CUATRO GATOS

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