2005年11月


■とある思い


黒沼雄太(中央大学総合政策学部3年・CUATRO GATOS準構成員)



「神よ、お許しください。彼らは自分が何をしているのかを知らないのです。」

Jesus


「人間は自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史を作るのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである。」

Marx


とある人は言った「背筋を伸ばして、頭で天を支える。赤ちゃんのようにおなかでゆっくりと呼吸をする。そうして自分を0に近づけていってちょうだい。」


禅でも、イスラームの儀礼でも、瞑想ではゆったりとした呼吸は基本中の基本のようだ。僕は瞑想をしていると、瞑想中の深い呼吸の中に「押してだめならひいてみな」という教訓のようなものが込められているような気がする。何かにがむしゃらになっていると、時たま頭の中がこんがらかってうまくいかないときがある。そんな時は「負けちゃだめだ自分!もっとがんばらなきゃ!」と思うことも多々ある。限界突破。逆境に負けず。「目的」を忘れずに。確かにそれも大事だ。


でも、時にはちょいと力を抜いてやるのも手かもしれない。煮詰まってがむしゃらになっている時、自分の「呼吸」を意識してみたことはあるだろうか。そういう時の呼吸は、なんだか浅くなっていることはないだろうか。僕は小学生のころに合唱をやっていた。中学・高校では長距離走をやっていた。そのせいか、結構自分の「呼吸」に対して敏感だ。煮詰まっている時、むしゃくしゃしている時、緊張している時、そんな時の呼吸はなぜか結構浅い。合唱が始まる前の時間、競技会のスタートラインにたった瞬間、心を落ち着かせようとついしてしまうもの。「深呼吸」。あれはいったい何だろうか。僕はそれを「身体の呼び声」だと思う。


「心」とは、無限に広がっていきそうなものだ。「やりたい」と思うことや「夢」はいくらでも広がっていくし、「思い」は自分の物質性を超えてさまざまな刺激に引っ張られていく。

でも、だれしも身体は1つしかないわけで。ものすごい勢いで無限に広がっていきそうになる頑張り屋の「心」に、のんびり屋の「身体」が、「ちょいとお待ちよ心さん、私を忘れちゃこまりますぜ。あんたがあっての私、私があってのあんた。それを忘れちゃ困りまさぁ。ささ、ちょいと手を繋ぎましょう。そうしないと、あんた、すぐにバラバラになっちまいますよ。」と小粋に語りかけている時、それがあの「深呼吸」ではないだろうか。心と体が手を繋いでいるときと、そうでないとき。僕の場合、パフォーマンスが向上したのは、圧倒的に前者だった。


人の精神は、自然の制約から自由なのだ。などとよく言われるが、考えてみれば人の身体って自然に育くまれたものだ。きっと人というのは、片足を自然に突っ込んだ存在なのだと思う。きっとグレゴリー・ベイトソンは「大文字のMind」という概念でそれを言いたかったのだろう。生命誕生から今に至るまで、時間の経過と共に、重層的に身体に深く刻み込まれてきた身体・自然的無意識と、ツギハギだらけの意識。人は二重の理によって生かされ/生きている。


「首からさげた誠実は、手首にまいた崇高は、獣が単に進化して、かわりに手にした財産」

The Yellow Monkeys


古代の人々が行なってきた、また今でも残る未開的・神話的な思考の名残を残す多くの儀礼や祭りとは、きっと、己の肉の内側奥深くから「あらゆる時間を越えて」突き上げてくる、「自然」の力への恐れと畏怖の念そしておぼろげな憧憬と共に、模倣しようとしてきたものではないだろうか。


自然の流れはよく円環を描く。回りつづける季節。回り続ける地球。山から海へと流れ、雲になって雨となり、また山から海へと流れる水。暖かいところから冷たいところへと移動して温度を一定にしようとする空気。無の世界から、弱き赤子として生まれ、大きくなり、年老いていくごとに赤子のように弱くなり、また無へと帰っていく、人の身体。右肩上がりは存在しない。社会的な生の中にいる限り、完全に「0」になる事なんてきっとできやしない。生きている限り、立場は、政治性は付きまとってくる。しかし、生きている限り、「無限」にもなれない。


いつから人は、神は「天」より「富」をもたらすものとしか考えなくなったのだろう。「地」の神は、「残酷」は、どうして、どのようにして、何処かへ消えた「かのように見せかけられて」いるのだろう。


「心」がどんなに鼻息を荒くしても、「身体」を滅ぼせはしない。


身体は、必ず呼びかける。


CUATRO GATOS

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