04年8月


消費社会のアレゴリー


  海上宏美(廃業調査会)



私たちが芸術の、演劇の近代性を考えるとき、形骸化したアレゴリーの内側からだけ考えることではもはやすまない。言い方を換えれば、芸術という領域の破壊を予感せずに語ることはできないのではないか、ということである。もう少し正確に言うならば、芸術が美学を根拠にして−根拠がなくても結局は同じだが−芸術という領域の破壊を予感せずに超越性を語ることはできないのではないか。もし語るとすればそれは偽の超越性だろう。超越性は全体性において語るときにのみ真の超越性となるはずである。それは宗教的次元において現れる。宗教的次元とは宗教を信じるか信じないかという次元のことではない。宗教的次元とは全体性(万人のためと言い換えてよい)において超越性を思考する位相のことであり、ベンヤミンの言葉で言えばメシア的次元である。……芸術という領域が生きているならば、廃墟である商品世界とは異なるものとして位置づけられているということになる。廃墟−アレゴリーとは「すでに死んでしまった表現」であったはずだが、にもかかわらず芸術という領域が生きているとするための根拠があるはずだ。その根拠が美学であるといっていい。芸術という領域が商品世界とは違う「高次の領域」だということを美学が根拠づける。その「高次の領域」はべンヤミンの思考の中ではメシア的次元へとつながっているのだが、ペンヤミンは芸術という領域を「高次の領域」と言っているわけではない。「複製技術時代」以降、芸術という領域は凋落している。芸術という領域を「高次の領域」への道だとイメージしている限り、芸術という領域の破壊が予感されることがない。私は芸術という領域−「高次の領域」というこのイメージこそが問題なのだと思う。……市場原理という言葉があるが、それは市場が法だと言う意味であり、それは地上的な人間の作り上げたものである。美学を根拠にした芸術という領域は、その地上的なものが究極の「高次の領域」であるメシア的次元−宗教的次元に達するための媒介として、自らを位置づけているように思われてならない。この認識は「複製技術時代」以降の芸術にあっては誤りであり、不正な錯誤である。


(『舞台芸術06』京都造形芸術大学舞台芸術センター刊より抜粋引用)



CUATRO GATOS

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