2004年8月
チラシ掲載文
清水唯史(CUATRO GATOS演出)
「内部性が外的であり、同じく外部性が内的である完全な境位、それが言語活動である」——ヘーゲル
「法の配慮は、自らを法として措定しそれを維持することに尽きる、言い換えれば、正に/正当なるものと
してそれが表象/再現する配慮を表象/再現するということに尽きる」——デリダ
芸術、もしくは演劇は表象不可能性を仮構した上で担保にしながら、それを常に踏み倒すことで生きながらえていると言ってよい。アガンベンが指摘するように、政治が生以外の価値を知らず、強制収容所が限りなく今日的なものであり続ける現代において、あるいは民主主義が全体主義へ徐々に収斂していく現代において(マルクスによれば「還元作用のゼロ度」を呼び込む議会制民主主義=代表制は、全体主義への可能性を不可避的に内包している)、未だ、表象しか知らない演劇は、否定神学を是認的に肯定し続け、例外状態を布告し続ける(それ自体が倒錯である)特権者の愉しみとしてのみ機能し続けているように思える。あるいは、階級の二極化と世襲化、アンダークラス(表象不可能なもの)の棄却といった下部構造における振動はテクノクラート=東京イデオロギーの表象の政治によって、「強迫的な希望(自己表象・自己実現・内発的行為)」で粉飾されているわけだが、演劇はまさにそうした粉飾の格好の場となっているようにも思える。
こうした情況に呼応するかのように、そして演劇の保守性や延命工作を根底から批判するかのように、名古屋地方から、「廃業」と「絶望」への呼びかけ(?)が発せられた。それは、芸術に「絶望」することで新しい芸術の可能性を探ろうなどというものではないらしく、「芸術家ではない人間たちの非行為」「無それ自体であるところの非行為」「演劇との無関係性」(清田友則・海上宏美)をこそ解き明かそうとしているという。
この呼びかけに応えないわけにはいかない。問題は明らかに演劇ではなく、「生」であり「性」であり「政治」であるからだ。しかしながら、それ故に「廃業」にただ与するのではなく、「私たちの絶望」「他者の希望」を「私たちの希望」と呼び換え、「行為」することについても考えてみたい。さて、演劇を未だ続けている演劇人に、「演劇に留まる理由」(内野儀)など果たしてあるのだろうか。それは二種類の「人間」に対する無頓着に帰着するのだろうか。あるいはそれはあくまでもナイーブな罪責感に留まるのだろうか。