2004年8月
「in/out-there」上演レポート
中西B(廃業希望者)
舞台上には天井から数十本のワイヤが整然とぶら下がっている。その前に上演の進行台本をおいた譜面台が並んでいる。舞台の下手の前の方で、演出の清水唯史がこの上演の意図と使用される二つのテクストの解説を始める。一つは現代の沖縄を舞台にそこに加えられた暴力の妄想じみた告発として米兵の幼児を殺した男が一人称で語る小説『希望』(目取真俊)、もう一つは二次大戦の後にシベリアに抑留された詩人石原吉郎の回想的エッセイ『ペシミストの勇気について』。上演の意図は、前者からは「最低の方法だけが有効である」と、後者からは「『人間』は常に加害者のなかから生まれる」という言葉を選び、そこから「告発の断念」(石原吉郎)を担保として「単独者」(同)としての人間の「希望」を作り上げようとするというものだ。その間にも俳優たちは、頭部と両腕を欠いた上半身だけマネキンのごとき固形Tシャツ(人に着せた状態のものをそのままの形で固めてある、中は空洞)=「人形」をワイヤに吊り下げていく。そして一体の「人形」には客席の方を写すビデオカメラを、さらに別の数体の「人形」にラジカセを仕込む。清水が舞台から去り、ラジカセから「希望」の朗読が聞こえ始める。「希望」の語りに合わせるように、朗読も物語も上演も緊張をはらみながらもよどみなく進行する。舞台奥の壁全面にビデオカメラからの映像が映し出され、二つの側壁には「希望」のテクストがスライドプロジェクターで映される。
やがて、俳優たちは「人形」でいっぱいになった舞台の地べたを転がり始める。それがしばらく続いた後、彼らは口から巻物状になっていた紙を引っ張り出しながら、そこに書かれた『ペシミストの勇気について』を朗読し始める。テクストの舞台はシベリアに移る。さらに、彼らは「人形」を取り外して劇場の外に運び出し始め、今度はポータブルカセットデッキでテクストを聴きながら、その朗読を続ける。真っ先に運び出されたカメラは今度は劇場の外の風景を映し出す。
テクストの変換を示す演出によって、観客は最初に語られたことを思い出す。現代の沖縄を舞台にしたフィクションと、五十年前のシベリアの記憶がつなげられることを。石原吉郎が回想する、シベリアの過酷な収容所とそこにいた一人のペシミスト。彼は被害者の群れから離れ、加害者の位置に自らを擬し、そして、ペシミストとしてそこから脱落することを選ぶという身振りにより、「単独者」になる。彼は決して告発はしない。もう一方には「最低の方法」を選ぶ犯罪者が現れる。彼は沖縄の受けた被害を告発する。沖縄がそれを実は受け入れていることを告発する。しかしその行為は「最低」であるがゆえに決して受け入れられない。彼は孤立している。どうやってこれらはつながるのか? 「単独者」と「孤立」の接続はどう行われるのか? その答えを知るためにはテクストを注意深く聞く必要がある。さらに親切に壁に映されるテクストを読んで再確認するもできる。相変わらずよどみなく進行する舞台では次々と「人形」が運び出され、カメラは「人形」が劇場の外で積み重ねられていく光景を映し出している。このとき、上演の進行に同期するのは、もはや朗読ではなく相変わらず消え去らない二つのテクストの不整合である。上演は、『希望』における最低の行為とそもそもフィクションでしかないといういかがわしさ、それと『ペシミストの勇気』とを結び付ける演出のいかがわしさに覆われてくる。「人形」を運び出すプロセスはさらに進み次第に切迫感が募っていく。それにしても「告発」をしない「単独者」の勇気はほとんど崇高な告発になり、何の大義もない犯罪者の孤立はそれがフィクションであることを加えればほとんど空疎でないか? 朗読は石原吉郎の「単独者」についての議論になり終わりに至る。そのとき観客は様々な不満の中にいる。私のテクストを読む文脈では、その不満は切迫感と不安が演出のいかがわしさを増幅していることにある。もはや、それらの言葉はただ舞台上にあげられたことにより並存しているままでしかありえない。こうした状況はあるいは言語がその意味による秩序を失いかけていることの兆しかもしれない。そして、この状況は終に収束することすらなく、意味があるのかすら怪しげな俳優たちの身ぶりで上演は終わる。
上演の後の観客は解放感に浸るか感動するか、それともまだ考え続けるかわからない。ただ振り返ってみれば一つだけ確かなことがある。この上演はただ「人形」を吊るしていって舞台を埋めつくし、それをさらにそれを劇場の外に運び出して積み上げる、このプロセス(審判)だけが一貫して続いている。そのプロセスこそが観客を縛り上演の場を定義していた。テクストのことをあれこれ悩みつづけ、後半になるに従い募っていった私の焦りは、このプロセスの着実な進行が作り出す切迫性によって生じていた。ただ退屈して見ていた客も、外に演出の仕掛けを確かめに行った客もその意味では変わらない。この時間と空間の「演出」、つまり場をフィクション化すること、これだけが「上演」が行われたことをことを露わにする。
それにしても、この「時間=歴史」の容赦ない進行こそ、私たちが確認しなければならない「現実」ではないのか。あのプロセス(審判)は観客を確かな意味の確定しない不安と不快の状態、あるいは没入の状態に置き続ける。すなわち現在の「現実」である恒常化された例外状態が露わになる法的秩序の宙吊り状態、それを「上演」によって意図的に設定すること。そしてそれが私たちに許される芸術の政治性の困難な現れであること。
『Review−Lution! 3号』(2004年9月)より転載