2004年8月


森山直人氏への質問


森下貴史(シネフィル)+清水唯史(CUATRO GATOS演出)



(1)現代演劇を観に行くという文化習慣のない国で、かつ他の複製メディアとは比較にならぬ程少ない鑑賞者に対して、「北」の一部の消費者の趣味的共同体(たんなる「演劇好き」から、洗練された芸術的自意識を持つ者までを含む)の閉域を形成しがちな劇場という場で、「南北問題」あるいは「差別」といった政治的主題・テーマを取り扱った作品を上演する意義(=他ならぬ今の日本で「演劇に留まる」理由)とは、例えばどこに見い出せば良いのでしょうか。


(2)〈9・11〉以降の文化状況を概観するに、「芸術と実行」というプロブレマティックの回帰が挙げられますが、「廃業」がその日本演劇バージョンであることは見やすい事実でしょう。例えば柄谷行人が『早稲田文学』(2004年5月)に載せた「近代文学の終わり」を読めば、90年代に文芸批評をしていた韓国の批評家たちが今や文芸批評家を「廃業」してエコロジー系の政治運動をしていることや、ベストセラーとなった第一作でイギリスのブッカー賞を97年に受賞したインド人作家アルンダティ・ロイが、その後小説家を「廃業」しインドでダム建設反対運動、反戦運動などに奔走していることを知ることができますし、日本の言論状況においても文芸批評からより直接的な政治批評に移る批評家を見つけることはたやすいことでしょう。柄谷はその「近代文学の終わり」の中で、90年代以降の小説はかつて担っていたような社会的な意味や役割をもはや失ったのだと述べています。(しかし留意すべきは、近代文学=小説と違って日本演劇には「社会的に担っていた役割や意味」などもともとなかったということなのですが)。

 「芸術と実行」概念への対処の仕方の一つとして、素材論(物語内容)レベルではなく、フォルマリスティクな話法/叙述(演劇においては上演形式)レベルに「政治」を見るという方法があります。例えば文芸批評家のスガ秀実は、小説の内面表象性がポエジーを介してファシズムを下支えしてしまうという問題意識から、エクリチュールのレベルでその対岸に立つ作品を「政治」的に評価しました。絶対演劇あるいは「廃業」以前の海上作品はこの意味で「政治」的だったのです。ここではそれを隠喩批判というに留めますが、その海上宏美がそのような「政治」を認めず「廃業」した今、演劇批評は何をもって日本の演劇作品を「政治」的と呼ぶことができるのでしょうか? (1)の質問にも関わりますが、(日本)演劇はテレビでも映画でもないということは海上宏美の言う「廃業」を考えると留意しなければなりません。直裁に言えば「結局作品を誰が見ているのか?」という問題が(日本)演劇界には常についてまわるからです。(これは、もし海上宏美がマイケル・ムーアのポジション──テレビで高視聴率をマークしながら直接的な政治批評をする作品をかなりの規模で放映できる=「芸術と実行」概念へのもう一つの対処法を実行できる──にいれば、作品制作を「廃業」することはなかったのではないかという思いにもつながります)。


(3)文化庁による演劇助成金というインフラ面の問題も絡んで、今日の日本演劇・パフォーマンス界の中には、直接諸外国の人々(もっと言えば「南」のアンダークラス)とのコラボレーション作品を海外で制作し上演する劇団も見受けられます。これは、日本における「芸術と実行」というプロブレマティックを海外に出ることで解消させる有効な方法であるには違いありませんが、同時に、「北」の演劇人に対して芸術の政治的有効性をとりあえず保証しているのみではないのか(「芸術と実行」概念からの微温的な回避)という疑問も一方にあります。要するに「誰が得しているのか」という問題なのですが、森山さんはどのようにお考えでしょうか?


(4)いま最も政治的な作品を上演している劇団はどこだとお考えでしょうか? またそれはいかなる意味において政治的なのでしょうか? 日本と海外で一つずつお答えいただければ幸いです(もちろん可能ならば複数の劇団をあげられても結構です)。


(5)森山さんは京都造形芸術大学という場所で、演劇あるいは現代アートの実作者を目指す若者を指導される立場におられるわけですが、彼らの将来に何を期待しますか?




森山直人氏からの返答


森山直人(京都造形芸術大学、演劇批評)


(1)

 まず、「意義があるから何かをする」という思考自体に抵抗しなければならないのではないでしょうか? 「意義があるから何かをする」という考え方は、どこかで全体主義と繋がっているような気がします。最近「意義」という言葉が社会的に使用されるいろいろな局面を思い起こしてみると、まるで何らかの「意義」が見いだせなければ何ひとつ行動できないかのような無力感に、私たちはますますがんじがらめになっているように思えます。当然のことながら、それはまた、「意義」さえ見いだせれば、大事なことがすべて得心できたかのようにふるまう短絡的錯覚へと、すぐさま反転することにも通じかねません。とりわけ不況が深刻化した九○年代後半以降、「セキュリティ問題」にしろ「自衛隊派遣」にしろ、まるで「意義」さえ立てばすべてが許されるかのように事態が推移してしまう。だから、「意義」という発想に抵抗し、それとは違った思考を、一人一人が、日々置かれている局面のなかで、具体的に見いだそうとし、実践していくことが、思考の不当な単純化を回避する道ではないかと考えています。

 同様に、私は「いまの日本で演劇に留まる理由」が客観的に存在しうるとも考えていません。質問(2)とも関連しますが、小説家や文芸批評家を「廃業」して社会運動を選択するという行為は、もしもその人が本気で重要だと思うのであれば、ごく普通になされるべきだと思います。それを「意義」や「理由」のレベルで考えようとすることは、本質的に無責任な態度につながらないでしょうか?「芸術に留まる理由」とは、本来であればいつ止めてもいいはずの芸術活動に、それでもなお、何らかの理由で留まることを選択してしまった人に、まさにその選択の結果として生じる倫理的な問いであって、あくまでもその(その都度とりあえずの)答えは個別に探求されるべき性質のものではないか、という原則に立ち返るべきだと考えます。ただし、「意義」や「理由」が、つねに言語的なレベルで成立するものだということには、注意が必要です。というのも、「選択」には、ある種の身体的位相が必ず関与しており、自分の身体が思った通りに動いてくれないように、「選択」もまた、自由意志によっていつでもコントロールできるわけではないからです。したがって、たとえ「芸術に留まる理由」が分かったと思ったとしても、「答え」と「選択」の間にはたえずズレが生じうるはずです。重要なのは、芸術に留まる「理由」や「意義」を性急に求めることではなく、ズレを生きていることを、できるだけ明確に自覚することだと思います。そのためにも、いま何らかの理由で芸術を選択してしまっている人は、なによりも、「芸術は、本来いつ止めてもいいはずのものである」ことを、たえず意識しつづけることが必要であり、それを意識し続けることが、「芸術に閉じこもる」のではなく、「芸術に留まる」ための唯一の方法ではないかと考えています。


(2)

 議論の前提として、私は海上さんが、文字通りの意味で演劇を廃業したとは思っていません。それどころか、ある意味では「廃業」を、一個の演劇であると言うことさえ可能だと思っています。もっとも私は、「演劇をやめる」という海上さんの宣言が、たんなる表層的なレトリックであるかのように思っているわけではないので、急いでそれを、一個の〈フィクション〉と言い換えておきたいと思います。ここでそのことをじっくり考察する余裕はありませんが、この「廃業」には、〈フィクション〉の今日的な存在価値をめぐるデリケートな問題提起が含まれているように感じます。それ以前と同じような形での演劇制作を停止したとしても、〈フィクション〉の今日的な可能性の探求という点で、海上さんは依然として一貫した立場を保持しています。そして、そこで立ち上げられようとしている〈フィクション〉が、それよりは狭いカテゴリーである「演劇」ともまったく切断されているわけではないことも明らかです。なぜなら、「廃業」という言葉には目的語が必要なので、その人が何を廃業したのかが不可避的に明示されてしまうからです。

 私はここで〈フィクション〉という言葉を、「見るー見られる」という社会的な関係のなかで、それを前提として導入される〈仮の真実〉とその機能をめぐる、意識的ないしは無意識的な探求、といったほどの意味で使っています。「廃業」は、その言葉を使うことではじめて可視化されうる文脈を指示するために選択されており、そのような文脈に属する人々から、おそらくかなりの多様な、広がりのあるレスポンスが期待できる用語ではないかという印象があります(現にこうして「廃業」シンポジウムが実現しています)。私自身がすぐに思い浮かべたのは、(1)で言及した「芸術は(芸術に限りませんが)いつ止めてもいいはずのものである」ということでしたが、もちろん「廃業」の〈フィクション〉としての可能性はそれにとどまるものではありません。また、「廃業」が〈フィクション〉であるということは、字義通り何かを廃業する人が続出してしまっても、それだけでは意味がないということでもあります。あくまでも「廃業」という〈仮の真実〉が作動することによって、潜在的な思考の文脈が呼び起こされることが重要だと思います。

 〈フィクション〉という点では、そもそもこの世に存在するすべてのものがフィクションである、という言い方も、もちろん可能でしょう。たとえば(1)で引き合いに出した「意義」という発想も、一面では〈フィクション〉です。けれども、テロリズムに屈しないことの「意義」や構造改革の「意義」が、臆面もなく語られている現実をみると、本来は〈仮の真実〉にすぎない「意義」が、あたかも無謬の〈真実〉であるかのように機能してしまっていることに気づかされます。柄谷行人は、オリエンタリストにおける「東洋の美」が、本来は美的判断以外の判断を括弧に入れることによって成立したものであるはずなのに、いわば括弧をはずすことを忘れることで、たんなる「美への尊敬」を「他者への尊敬」と都合よく混同した、という意味のことを言っていますが(「美学の効用」、『定本・柄谷行人集4』所収)、私が言おうとしている〈フィクション〉とは、そこで言われている「括弧入れ」「括弧はずし」とよく似ています。「意義」の濫用は、いってみれば、括弧はずしの大がかりな忘却であり、より正確には「なかったことにしよう」という意識の蔓延です。〈フィクション〉の存在価値は、まさにそうした社会的潮流に抗うところに組織されなければならない、と考えていますが、その方法は、「主題」や「形式」といったカテゴリーに単純には還元できない、複雑で多様な可能性をもっているように思われてなりません。当たり前、といえばあまりにも当たり前のことですが、このことは、今日、〈フィクション〉に携わるすべての人々が再考するに値する事柄だと思います。というのも、今日ほど、〈複雑で多様なもの〉に対する知的関心が無惨に瓦解してしまった時代はないのではないかと思われるからです。

 したがって、質問(2)に対するひとまずの回答は、上記のような〈フィクション〉の原理的特徴を、今日的な可能性として再生させることのできる作品、ということになります。けれども、それ以前に認識しておかなければならないのは、あらゆる演劇作品は、それ自体として政治的である、ということではないでしょうか? 演劇批評がまずもって認識すべきことは、どの演劇作品が政治的であるかどうかを判断する以前に、あらゆる存在がそれ自体ですでに政治的であることに眼を向けることであると考えます。言い換えれば、本来であればいつ止めてもいいはずの演劇を、それでもなお、何らかの理由で続けることを選択してしまっていること自体が、それだけで十分に政治的である、ということです。そういう意味での自らの政治性に対して無自覚な演劇は、けっきょく劇場文化(「北」の一部の趣味的共同体)に歓迎されるほかはなく、そうした傾向に対する近年の優れた批判としては、たとえば杵渕里果さんの阿佐ヶ谷スパイダース批判(『第二次シアターアーツ』1号)などが挙げられると思います。


(3)

 そのような傾向のプロジェクトが多発するのは、もちろん助成金問題と深く連動しているからですが、そのような傾向の試みが、おしなべて「芸術と実行」概念からの微温的な迂回というふうには断定できないと思います。その点では、あくまでも評価は個別的になされるべきです。もちろん、日本でここ数年さかんに行われてきたアジア演劇との交流や共同作業、というプロジェクトは、いまのところ、さまざまな演劇作家がアジア圏に存在することを情報として知らしめる以上の成果を挙げていないものが大半だと思いますが、だからといって、これまで欧米一辺倒でやってきた日本の演劇界を考えれば、この「知らしめる」という成果を過小評価することもできません。また、鴻英良さんのラオコオン演劇祭は、アジア系の作家や劇団を数多くラインナップしてきましたが、もちろんそうした作家たちが、欧米の劇場制度のなかに招かれれば、「「北」の一部の趣味的共同体」における商品化の文脈に、ある程度はとりこまれてしまう危険も引き受けざるを得ません。けれども、そういうプロジェクトの一環として行われたからといって、それだけでその作品なり試みなりの価値がすべて否定される、ということにはならないはずです。

 けっきょくここでもまた、〈フィクション〉という〈仮の真実〉とその政治性に、作り手も見る側もどこまで自覚的になれるか、という問題が浮上してきます。外国演劇とのコラボレーションに、「芸術の政治的有効性」を本気で感じている「「北」の演劇人」がいるとすれば、その人は〈フィクション〉の可能性にではなく、「意義」の政治学にしか関心がない、ということになります。「意義」に固執する限り、それは、遅かれ早かれポピュリズム的な動員の力学に解消されてしまうでしょう。そもそも外国とのコラボレーションは、「芸術と実行」というプロブレマティックを少しも解消してはくれません。彼らが選択してしまっているのはまぎれもなく「演劇」であって、それ以外のものではないからです。にもかかわらず、それが「演劇」ではなく一種の「実行」であるかのように錯覚するのは、自らが「演劇」であることの根源的な政治性を、〈仮の真実〉の否定によって都合よく隠蔽することにしか繋がりません。

 海上さんもどこかで発言していたと記憶していますが、「演劇は演劇である」という同語反復に対しては、最低限の倫理として、最大限それに自覚的でなければならないはずです。ところで、「演劇に留まってはいけない理由」とは、いったいどこにあるのでしょうか? 「演劇に留まる理由」と正確に同程度に、それを発見することは困難です。要するに、あらゆる実践は、己れを全面的に肯定する論理も否定する論理もないところでなされなければならないのであって、その根拠のなさに耐えることなしには、倫理的な実践は成立しえないのだと考えます。そのような条件を生き抜くためにこそ、私たちは〈フィクション〉という〈仮の真実〉の可能性に関して、本気で関心を持たなければならないのではないか、と思うのです。


(4)

 この質問に答えることが、いまの私にとっては最も難しい、という気がしています。以下のような「正論」に逃亡することはすぐにでも可能です。すなわち「あらゆる作品が根源的に政治的なのであって、何かひとつを選ぶということには意味がない。また、鴻英良がラオコオン演劇祭のプログラミングを、政治的演劇の可能性のコンステレーションとして行わざるをえなかったように、現代は対抗的な力を、ひとつの作品や劇団、ひとりの作家によって代表させられるような時代ではない。むしろ、東京国際芸術祭の中東特集なども示したように、いくつかの作品がどのような星座を形成しているのかを、その総体において見ていかなければならないのではないか。一つ一つの作品の内在的価値だけに固執するのではなく、一つ一つの作品が他の作品と(こういってよければ)〈アソシエート〉していく可能性の方を描き出していくべきではないか」というのが、その「正論」です。

 けれども、同時にまた、固有名詞を挙げるという行為は、批評の持つ〈フィクション〉の機能として無視しえないものです。したがって、上記のような「正論」をとりあえず並べてしまったのは、たんにいまの私に固有名詞を使った〈フィクション〉を提示する準備がないこと、単純に不勉強であることを意味するものでしかありません。固有名詞の列挙は、たしかに事態を過剰に単純化することにも通じますが、ある種の過剰な単純化が明かしてくれる状況というものも、確実に存在します。シュリンゲンジーフもサーシャ・ヴァルツもリミニ・プロトコルも、今の私には、面白そうだとしか言えません。最近の日本では、宮沢章夫と松田正隆の動きにある種の可能性を感じますが、その理由は、ここで簡潔に言いうるほど自分のなかでまだ整理できていません。また、『God Bless America』や『在日の恋人』(これらを、美術作品であると同様に、演劇作品と見なしてはいけない理由は何もありません)の高峰格には、社会的な問題と個人的な問題を接続する仕方において、注目すべき点があると思っています。


(5)

 「彼らの将来」にではなく、彼らに期待しています。「将来」は彼ら自身の手で決定できない要素を多く含んでいますが、現時点で、彼らは十分に優れた感性と能力をもっており、そのうちの一定部分はすでに成果として顕在化されてもいます。必ずしもうまくいっていない場合でも、そのことに対する悩み方の質が全体として非常によく(これは重要なことだと思います)、ほとんど信じがたいことですが、こちらがその資質の高さに驚かされる機会が、相当少なく見積もっても、年間10回を下回ることがありません。その能力は、首尾よく作家になったとしても発揮されるだろうし、ならなかったとしても様々な場面で十分に応用が効く、といった性質のものです。もちろん、今後、舞台を職業的に選択したときには、すでに述べた「いつ止めてもいい」という厳しい原則にたえず直面しつづけることになるし、そのなかで止めることを選択していく人も実際に出てくるでしょうが、あくまでもそれは二義的な問題だと考えています。また、彼らが属しているある種の階級的な基盤(芸術大学の学費の高さは、能力さえあれば誰でも払える水準ではない)に対しても、自覚を深めていく必要があるでしょう。

 質問の主旨とややズレるのですが、私は近年のいわゆる「美学批判」と言われるものに、いささか偏った部分があると感じるようになってきています。「美学批判」は、それがフィクションであることの自覚を欠いてしまうと、結局は「言語の専制」といった状況を招来してしまいかねないからです。芸術は不透明なものであり、そこには簡単には有益とも無益とも断定できないような信号があふれています。その不透明さは、「身体」や「存在」の不透明さに通じるものです。批評の役割とは、不透明なものを言語の透明性というイデオロギーによって排除してしまうことではなく、不透明で複雑なものの輪郭を、不当に単純化することなく描き出すことによって、作り手が属している政治性と見る側が属している政治性を(政治性それ自体もまた不透明なものです)、妙な言い方になりますが、冷凍食材をできる限り鮮度を保ったまま解凍していくような注意深さで、同時に明るみに出していくことではないかと思うのです。それはたんに批評だけの問題ではなく、〈フィクション〉の可能性にも通じる事柄です。私はチェルフィッチュの岡田利規さんに可能性を感じていますが、彼はある種の複雑な現実を、複雑さの輪郭において描き出すための方法が必要であることに自覚的だと思います。そして、私が私の知っている学生たちの現在に期待を覚えるのも、不透明な現実をひとまず不透明なものとして受け入れつつ、それに対抗する<フィクション>を作りあげていくのに必要な感性と知的な勘のようなものを、基本的な部分で保持しているように見えるからです。


——「回答」と言えるかどうか自信がありませんが、私がいま考えていることは、だいたい以上のようなことです。質問に触発された事柄を自分なりに明確にしようと努力したつもりですが、質問に十分こたえきれていない部分も多々あると思いますし、気づかないうちに質問の主旨を誤解してしまっている部分もあるかもしれません。そうした不十分な点に関しては、今後の対話の継続のなかで一つ一つ再検討していきたいと思っています。ひとまずの締めくくりとして、ともかくこのようなことを考える機会を与えてくださった清水さんと森下さんに、心からの感謝の気持ちを表しておきたいと思います。


 

CUATRO GATOS

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