2004年8月
『絶望論 〈知〉と物欲の不良債権処理』
清田友則(名古屋芸術大学講師・廃業調査会)
絶望とは選択の問題でも気持ちや心がけの問題でもない−なぜなら、それはすでに起き(結果)、かつそこに不可避的に向かう(過程)ことのあいだの絶対的矛盾を指し示す言葉にすぎないからである。もちろん、今後それをどう解決していくかといった課題は当然出てくるが、そうした「希望」はあくまで絶望とは別個の問題として取り扱われるべきであって、絶望それ自体に内包された問題とみなすべきではない。だいいち、「希望的側面」のあるような絶望がはたして真の意味での、つまり良い意味での絶望と呼べるだろうか?……喜劇(希望)は悲劇(絶望)にさし替えられている。本来辛く悲しいはずのものが、にもかかわらず快楽をあたえるのは、悲劇が絶望という形態(=症候)を借りて希望を表現しているからである。ただ、希望と絶望が等価で交換可能であるということは、その逆も、つまり希望という形を借りた絶望の表現も本質的にはまったく同じということになり、どちらをとろうがトラウマの源がひとつ(=共産主義)である点に変わりはない。トラウマはそれ自体として表現されることはありえず(でないとトラウマはトラウマでなくなる)、ありうるとすれば別のものに置き換えられたときだけである。ポストモダンが政治的カテゴリーである以上に文化的、想像的カテゴリーとみなされるのは、おそらくはこうした置換行為のトラウマ(=置換によって斥けられたもの)に対する優位性によるものであり、本来あるはずの政治的現実−マルクスによればそれは階級闘争に他ならない−はメタ・ジャンル的「現実」(気晴らしや息抜き)にすり替えられている。なるほど文化を生き抜くことで政治的領域に達することは可能かもしれないが……こうした政治そのものへの可能性それ自体を物像化(「文化化」)することにかけてもポストモダンは長けている。いや、それ以前に資本主義の代替案がとりあえずみつからない以上、我々は今のところトラウマという本丸以外の何か別のところに可能性を模索するしかない。ただ、しかしそうなると、倫理的要請として我々は喜劇(希望)ではなく悲劇(絶望)を不可避的に選択せざるをえなくなってくるということになる。というのも……いま我々が唯一持ちうる希望とは、資本主義に染まった「大人」(我々自身)が持つべき希望というよりは、資本主義にまだ毒されていない「子ども」(他者)に託すべき希望であり、我々自身に託せるものは「絶望」以外にない。
(『絶望論〈知〉と物欲の不良債権処理』晶文社刊より抜粋引用)