2004年8月
廃業と私
清田友則(名古屋芸術大学講師・廃業調査会)
私にとっての「廃業」(文学研究の廃業)は、仰々しくまくし立てるほどのものではありません。単にやる気が失せただけです。いや、やる気など最初からなかったのかもしれません。文学研究者であるからには、まず文学が好きでなければなりませんが、振り返ってみると、好きといえるほど文学に没入したためしはこれまで一度もありませんでした。それでも、それなりにやる気のポーズを保ってこられたのは、文学テキストとは別の「批評」という行為に私なりの意義を持ち得ていたからでした。ところが、ここ最近になって、批評に対しても関心が失せてしまったのですね。
批評という言葉をここでは「批判」という意味に受け取ってもらうと、より理解しやすくなると思います(カントの『純粋理性批判』やマルクスの『資本論——政治経済批判』の「批判」あたりがそうです)。批判とは、そもそも何かを批判すると同時に、誰かを批判する行為です。批判すべき人間はいくらでもいますし(もちろん自分自身も含まれます)、気にくわない人たちに物申すのは人間の原初的本能です。でも、それで何かが本質的に変わったでしょうか? 確かに少しは変わったかもしれませんし、批判しないよりはしたほうがマシでしょう。ただ、私の場合、こうした「塵も積もれば山となる」的態度を維持していくだけの意欲がもはやもてなくなったというか、「山といっても中身は塵じゃないか」みたいなバカらしさ先に立つようになってしまったのですね。テレビの政治討論会で、政治家が互いを罵り合ったまま、議論が平行線をたどるパターンにいらだつのと同じかもしれません。批判はある意味、勝ち負けを競い合う勝負です。だったら、最後には勝敗が決着してもらわなければなりません。ところがその最後が一向にやってこないわけです。いや、それ以前に同じ土俵に立つことすら、そもそもなかったのかもしれません。批判が往々にしてただの内輪もめにしかならないのもそのためでしょう。それは今日の政治状況でもあると同時に、今回のシンポジウムのようなイベントが常にはらむ危険でもあります。私は、もはやそういうものに関わり合いたくない気持ちを日増しに強く感じております。もういい加減にしてくれと。でも、これは僕だけの気持ちではないと思います。演劇離れも文学離れもアート離れも、根は同じではないでしょうか。要は政治不信です。
では、それに代わるものとして何があるのか? これを僕は精神分析にならって「分析」と名付けたい欲求に駆られています。分析とは、勝ち負けを競い合うバトルではなく、むしろバトルが成立しなくなった状況、山が動かなくなった状況を「分析」することです。誰もが山の土砂の中に埋まっているという点では、敵、味方の区別もないし、批判の矛先をどこに向けていいのかも誰にも分かりません。となると、少なくとも当座として重要となるのは、究極の批判対象——それは演劇でも文学でもアートでもなく、政治です——が不在している(正確には「姿をくらましている」という意味ですが)という今日的事実をまず率直に認めることです。私のいう「廃業」とは、土俵がないにもかかわらずあるかのごとく振る舞う態度——これが「ポストドラマ」の本質だと私は思っています——を捨てる行為を指します。廃業を含む何もかもを演劇的モチーフとして一笑に付すポストドラマあるいはポストドラマ的批評は、人間すべてをゾンビの役柄に貶めるものです。分析はあくまで「死ぬことのできる」人間を対象とします。そこから何かが生まれてくることのほうに私は未来を賭けたいと思っています(たとえ何も生まれないとしても、そもそも演劇はバクチみたいなものですし)。