04年8月


北野圭介氏への質問1


森下貴史(シネフィル)+清水唯史(CUATRO GATOS演出)



 早速で、恐縮です。ざっくばらんに質問させていただきます。


 最近、柄谷行人が「近代文学の終わり」ということを言い始めています。「廃業」とは端的に言って、この柄谷的問題意識を共有しているもののように思えます。(近代)芸術はもはや(階級)闘争を担えないのだ、と言っているのだと思えるわけです。

 しかしながら、本当にそうなのでしょうか。政治的主題の芸術との接合はいまだ何らかの可能性を持ってはいないでしょうか。

 マルクスは(ヘーゲルでも良いのですが)『フォイエルバッハ・テーゼ』の中で、哲学者は世界を解釈することばかりをやってきたが、大切なのは世界を変革する実践なのだ、と主張しました。

 「廃業」がこのような「目的」を持っているのであれば、違和感はないのですが、「廃業」の三人は今のところそうした動きを見せてはいません。


 大野左紀子氏は少なくとも名古屋のアート業界では力のある現代美術家と見なされていました。現在、実作は廃業しましたが、美術大学で教えているという点では業界自体から足を洗ったわけではありません。しかし、まさにアートが「飯のタネ」になっているだけに、業界からの風当たりは最も強いと想像されます。

 清田友則氏は、文学研究者を廃業したことになっていますが、最近最初の著書を出したことからも知れるように広義の「批評家」ではあり続けています。

 海上宏美氏は、演出家を廃業しました。しかし、演劇批評家は廃業しておらず、かつ名古屋での大きなパフォーミング・アーツのイベントのダイレクターをやっており、演劇業界には留まり続けています。ちなみに、海上氏は勿論、演出家として収入を得ていたわけではありません。


 こうした三人が「近代文学の終わり」のようなものとして、「廃業」ということを呼びかけていることについて、北野さんはどのように考えますでしょうか。

 

 不躾で、稚拙な質問で申し訳ありませんが、ご返答いただければ幸いです。



北野圭介氏への質問2



 まず、「廃業調査会」が提起していることを私たちなりに整理します。


・万人が消費者である、故に、未来の全体像が描けない、子どもに希望を託すことは出来るが、大人である私たち自身に託せるものは絶望しかない、。

・ポストモダン社会においては、近代歴史哲学の世界解釈の失敗、枠付けの失敗が明らかになり、近代歴史哲学を前提にした「思考の立ち位置、態度」は、もはや取り得なくなった。

・ラカンが言った「万人の満足なしに個人の満足はあり得ない」とその反対のポストモダン的「個人の満足なしには万人の満足はあり得ない」の両方を拒否すること。そして、「万人の不満足なしに、いかなる個人の不満足もあり得ない」を「光明」と捉えること。それはつまり、自分だけが救済されることの拒否である。

・ニーチェを起源とするそれ以後の現代思想は逸脱(フーコー)や逃走(ドゥルーズ・ガタリ)に主体性を据えます。では「自分だけが救済されることの拒否」はどうか。これは義務感に由来する限りにおいて男性的(哲学的)系譜学に属すものだと言える。しかし、これが義務感ではなく欲望からくるものだとすると精神分析の立場に身を置くことになる。ラカンにとっての究極の欲望とは逆説的にも「主体性の欠如」であり、彼が特権化する「分析医の言説」はすぐれて女性的なものとされている。

・よって、廃業はジェンダーを前提にしてしか語り得ない。


 ところで、北野さんは『「ハリウッド映画」と「ハリウッド映画みたい」の間』の中で以下のようにお書きになっています。


………ハリウッド映画が、その資本力のグローバルな展開と共に、数多くの国々の日常に入り込み、人々の想像力を刺激してきたことは20世紀の歴史の紛れもない事実である。…幾重にも重層して走るコミュニケーション回路のなかで、物語的な思考様式も重要な一端を担っているという判断から指摘しうる………


 これは端的に「廃業」という問題と絡んでくると私は思っています。9.11にあまり仮託したくはありませんが、9.11は北に侵蝕された南が、言説ではなく、行為によって北になろうとしたということを意味している。そして、この南が北になりたい、なるしかないという欲求(欲望ではありません)=強迫的状況は、未だ男性的系譜学に属するものであり、「分析医の言説」を「特権化」することは、半北、汎北的状況におかれた世界中の南(勿論、北の内部の南も含みます)を結果としてレイプすることにはならないのだろうか(無論今までもレイプし続けていたわけですが)。

 そして、今、私が書き記したようなジェンダーバイアスの掛かった言説構造自体を不問に付すことにはならないだろうか。


 あまりにも、単純な問いで恐縮ですが、私はこうした違和感を「廃業」に対して抱いているわけです。北野さんはどのようにお考えになるでしょうか。ご返答をいただければ、幸いです。




北野圭介氏からの返答


北野圭介(新潟大学助教授)



 演劇について書いたことがないわけではありませんが、積極的にコミットしてきたとは到底いえない私が、演劇の今後を見据えた、このような刺激的な企画に対し、何か有益なことが言えるかどうかは、はなはだ疑わしい、それがまず正直なところです。


 他方、しかし、今日ものを考えるとはどういうことか、あるいは批判的に思考するとはいかなる行為を指すのか、さらにいえば、今日わたしたちを取り囲む状況に対してどのような仕方で自覚的でありえるか——自らの位置について自覚的でない行動的介入がもつ可能性もないわけではないでしょうが——という問いについては、極めて大きな関心があります。そしてそのような問いに関しては、演劇という分野だからこそ、もしかするとあるかもしれない役割、という発想に、頭を悩ましてみることには、少なからずの興味をもってもいます。それで、ご依頼に対して応答することにいたしました。


 柄谷行人氏のいう「日本近代文学の終焉」には、自分も共感するところがあるのは間違いありません。小説、それも社会に対してなんらかの強烈な価値を創出し提示しえた「小説」という文化あるいは芸術的な実践形態の有効性が、いま、緩慢な死を迎えつつあることに有効な反論をすることの難しさは、少なくとも、私が勤めているような大学において、「文学」を読む、もしくは「文学」に振り回される学生の数が劇的に減少していることからも、実感できる話です。これは、先鋭的な少数がどうのという話ではなくて、小説というジャンルを支える、極めて唯物論的な土台の話だと思います。唯物論的といえば、これはいましがた言ったことと関係することかと思いますが、私が生活の糧を得ている、大学という職場での人文学の凋落ぶり、その、少なくとも当座は圧倒的に暗いとしか言いようのない、行く末、という事態もあります。これについては、「文学」なるものの価値、あるいは価値なるものを創出できる文学、というものを押し流していく、とりあえずは「グローバリゼイション」と呼ばれているなんらかの新しい資本の運動に、諦念や絶望感を感じてしまわざるをえないということがあります。


 「文学」は、かつて人々の実存を十分に振動させえたがゆえに、政治や経済の次元にまでも力をもちえた強度であったといえるわけですが、今後、そのような強度を持ったものは文学からは出てこないだろう。消費される物語はまだまだ出てくるだろうけれども、という判断も僕は有しうるということです。政治・経済の領域にもはや力を及ぼすようなものは——もちろん、倫理とか矜持とかという側面で、です——出てこないという観測です。もしそうだとするならば、わたしたちは、「文学」や「文化」の営為に賭けるよりも、むしろ、政治経済に直接関わるような実践に移行した方がよいのでしょうか? 実際、「文学」や「文化」あるいは「芸術」といった、呑気な営為に耽溺していることが罪悪と感じられるくらい、経済のグラウンドからはじきとばされた人々が増え続けています。政治的に厳しい境遇に甘んじなければならない人々があふれ出て来ていることは新聞やテレビでまいるくらい報じられています。そういったことは、国外において日々その度合いを過激にしつつありますが、国内的にも近年日増しにドラスティックになってきていることは間違いない。このようなとき、「文学」や「芸術」などといっている場合ではないというのは説得力があります。そして、そのような姿勢に、私は必ずしも強い異論のあるところではありません。演劇を廃業するということも、その意味で、ありうべき選択のひとつだと思います。


 けれども、それでもなお、という思いがないわけではない、というのも否定しがたくあるのも告白せざるを得ないところです。私たちが日々の生活を営んでいく際、そこに、感覚や認識、さらには情動といったものが常に作動していることに疑いはないでしょう。そういったものの折り重なりの上に、わたしたちの生は成り立っている。あえていえば、そうであるからこそ、この「グローバル」な波、わたしたちに押し寄せている、政治経済の巨大な波も、己に見合った「文化」や「芸術」を付随させているのでしょう。わたしの専門領域のひとつである、ハリウッド映画が70年代以降多国籍企業化するとともに、エンターテイメント産業すべてを呑み込むメガコンクロマリット化し、急いで付け加えておけば、なんらかの「価値」を世界中の観客に与え続けていることは、歴然としてあり、私自身、非力ながらあちこちで強調してきてきた点です。わたしたちの生活、今後ますます政治経済的に厳しくなる生活には、同時に、新しい「文化」や「芸術」がぴったり寄り添っているはずなのです。だからこそ、極めて奇妙なことですが、自ら納得しながら、自らの境遇に甘んじるということさえ生じてきているように思います。イーグルトンからジジェク、それにジェイムソンをはじめ、多くの欧米左翼知識人たちが、オルタナティブな思考実践の回路あるいはベクトルが、恐ろしい勢いで消え去りつつあることに懸念をここ数年表明していますが、それは、資本とセットとなった文化の全面的な開花に亀裂を生じさせる突破口の先細りこそを示しています。あるいはまた、わたしたちは、自らの生の実感と結びついた、生活世界の解釈の枠組みを手に入れているでしょうか。例えば、ネオリベラリズムという言葉で、現在の資本主義およびわたしたちの生が理解されたでしょうか。それは、政策方針の語でしょうか。社会学の分析用語でしょうか。9・11は、ネオリベラリズムの帰結でしょうか? それとも、ネオコンの台頭こそが、ネオリベラリズムの帰結なのでしょうか?


 あるいは、それとも、ネオコンは、ネオリベラリズムが破綻したからこそ、せりあがってきたのでしょうか——欧米の左翼系知識人のひとつの見解です。さらにいえば、ネオリベラリズム的社会認識が奉じるところとされる生政治学は、それこそ、不可避の身体文化なのでしょうか。ならば、ドイツで起きた、優生学論争は、遺伝子組み換えの時代、文化もしくは身体文化の認識に関わる課題として、もっと真摯に取り組まれていいものではないでしょうか。柄谷氏は、論文で、ネオリベラリズムを、「後期資本主義」の次の段階の資本主義の形態を指すのに使ってますが、その箇所については、私としてはよくわからない。とまれ、もし、なんらかのかたちの対抗的な実践をわたしたちが志向するならば、少なくとも、もしわたしたちが己のおかれている境遇に自覚的であろうとするならば、戦略的に練り上げられてきた文化実践がこれほど希求される時代はないのではないでしょうか。わたしたちは、圧倒的な規模と迫力で覆いかぶさってくるものに、ただ翻弄されるだけではないよう体勢を整える必要があるのではないでしょうか。そのためには、感覚と認識のオルタナティブへの亀裂を生じさせていかなくてはならないのではないでしょうか。わたしたちには、やはり、「文化」の実践が必要でないのか。柄谷氏自身も、「日本」の「近代文学」は終わったけれども、有効な文化実践すべてが終わったといっているわけではない、というのが、私の読み方でした。もちろん、従来と同じ手つきで、「文化」や「芸術」を実践することに有効性があるかどうかは懸念されるところです。もちろん、さまざまな方向性があるでしょう。ここでは、とりわけ演劇という行為に近い視点から、勝手な見解を述べさせていただきたいと思います。わたしの感じるところでは、何を訴えるにせよ、今日、作品と鑑賞という次元に絞った方向性には、相当程度の限界が見えてきているような気がしています。むしろ、文化の生産プロセスそのものを反省的に機能させることが重要になってきているように思われます。資本は今日、かつてないほどに、「文化」や「芸術」の創出に積極的です。娯楽産業という昔いわれていた事態は、「文化」や「芸術」のほぼ全域に、しかも極めて洗練されたプロセスにおいて、及んでいるといっていい。資本は、今、「文化」「芸術」の生産にやっきなのです。少なくとも、このような「文化」生産様式を意識することは必要ではないか。何を表現するか、だけではなく、どのようなプロセスでものにしていくのかが非常に重要な段階に入ったということになるでしょうか。形式はいまやプロセスの自覚においてこそ重要で、形式性の精密さの美学において称揚されるものではないと思います。すぐれて実践的な、表現=運動という段階に入ったのかもしれません。そして、そういった方向での実践こそが、今批評的なのではないかと考えています。「日本近代文学」を可能にしたのは、言うまでもなく、「日本」という一体的な国民性の自覚に基づいた集団的アイデンティティの存在だと思います。柄谷氏が、「日本近代文学の終焉」を持たれたのが、『日本近代文学の起源』の英訳の序文執筆の際ですね——この点で、アンダーソンの『想像の共同体』と接近しつつも別途の可能性を含んだ仕事であったといえると思いますし、この本を狭い意味でのナショナリズム批判としてしか捉え得ない、カルチュラル・スタディーズ的発想とは根本的にベクトルが違うといっていいかと思います。とまれ、いずれにせよ、そのような意味での、集団的アイデンティティは今崩壊しつつある。よきにせよ、わるきにせよ、です。であるならば、実践のプロセスを通じて、まったく別の集団性をつくりあげていくべきかどうか、はひとつの大きな問いになるかと思います。柄谷氏自身、そのことがあってなのか、ある種の組織作りの運動にコミットしている。その運動自体の良し悪しについては意見が分かれるところでしょう。ただ、私自身は、いずれにせよ、なんらかのかたちの価値、集団が共有しうる価値を、しっかりと作り上げていく必要はあると思っています。少なくとも、潜在的なニーズは計り知れないくらいにあると感じています。昨今の、古色蒼然たるナショナルな意識への強引なゆり戻しの大繁盛ぶり、そこまでいかなくとも、虚構としであれ確信犯的にナショナリズムに回帰することで、巨大な波のうねりへの要塞をつくりあげようという企ての大ヒット、といったものの意味するところは、価値が、わたしたちの生の世界から消滅しつつあることの証左にほかならないと思います。ハリウッド映画か、癒しの日本茶か、といった選択肢は、しかし、あまりにも、ハリボテ感が強い。フィクションであれ何であれ、ナショナルなものへの仮託の有効性は、もはや、ない。それは、「近代文学」とともに死んだ。別の言い方をすれば、「日本近代文学」の消滅の宣言は、ナショナルという形態での集団的アイデンティティの決定的な不可能性の宣言であるともいえるのではないでしょうか。とまれ、では、演劇という分野だからこその、こういった、集団的な価値の消失という事態への、意味ある関与の仕方はどういったものになりえるのでしょうか。60年代のアングラ演劇にまで浸透していた、家父長的共同体など、時代錯誤もいいところなのは自明です。どういったものが適切なのか、具体的なイメージは私にありません。ただ、欧米では、文化創作や演劇実践を通じた、コミュニティづくりは一大潮流になりつつあるようです。それは、自律的な演劇集団の構築というよりも、むしろ、社会——もはや実態的な意味を失っているこの言葉をあえて使って示そうとしているのは、演劇活動の外部、という程度の意味でしかありません——と緩やかで多様な関係性をもった、制作プロセス全体を含んだ、プロジェクトの実践といったものに近い。東京のことはよくわかりませんが、私が住んでいる新潟では、お笑いの舞台をおこなう集団が、幼稚園、小・中・高等学校、大学といった教育の現場、あるいはまた、さまざまなボランティア活動の現場で、完成された作品の提示などといった閉ざされた行為などではない、開かれ、そして多方向に広がりを展開する、演劇を実践しています、これは、私の勤める大学も含め、既存の文化機関への、大きな介入となっています。ことは、新潟に限ったことではないと思います。地方の独立系の映画館が、地方における多様な若者のネットワークの要めになりつつあることは、文化庁でさえ注目している事態であったりします。演劇は、具体的な身体、現前する声=言葉、その場で転移していく情動を扱う表現活動です。あえていうならば、映画なんかより遥かに、直接的に、人間同士の関わりに影響を持ちます。それだけではない。古来、演劇は、魂を納め、怨念を成仏させ、成しえなかった夢を伝えていく、それなしには、集団的な価値創造はありえなかった、実践活動ではなかったでしょうか。わたしたちを、周囲の状況への積極的な諦念へと導く現状の文化に自覚的であるために、自己了解の仕切り直しのために、そして、資本の運動に対するオルタナティブな価値を創造するために、演劇のできることはまだまだあるように思えます。たとえ、「日本近代文学」が「終焉」しようとも、です。それに、そもそも、「日本近代文学」は、演劇を抑圧することに、よって生まれたのではなかったでしょうか。だとすれば、「日本近代文学」の「終焉」は、「日本」以前の演劇の可能性の解放こそ意味するのかもしれません。


 つらつらと勝手な物言いを連ねてきましたが、「日本近代文学の終焉」と、演劇実践の停止は、直感的には結びつかないというというのが、ご依頼へのわたしの応答になりますが、それは以上のようなものです。



清水唯史 様

森下貴史 様

北野圭介

スターバックスが際立ちはじめたパリより



 

CUATRO GATOS

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