連載 Another Stories 桑原史成(フォトジャーナリスト)
第5回 松本勉さん(水俣病市民会議/下写真は著作『水銀 みずがね』)
僕が松本勉さんに最初に会ったのは、水俣を初めて訪ねた1960年の8月、彼が勤めていた水俣市役所の衛生課ではなかったかと記憶する。
その2年後の1962年、水俣は新日本窒素の水俣工場で労働争議(安定賃金闘争)が起きていた。街を二分する前代未聞の“紛争の現場”とも表現したくなる街と化していた。
労働争議渦中の水俣再訪問
僕にとってこの年の水俣での撮影は、秋に東京・銀座の富士フォトサロンで開催する写真展を前にしての追い込みの再取材(撮影)であった。その時のことから記していく。
写真学校で親しくなった写真家志望の英(はなぶさ)伸三君が東京から同行、数日ほど滞在して撮影を手伝ってくれた。彼はソニーの広報部に勤務していた経緯から録音技術に精通していた。高価な録音機「デンスケ」で患者、漁民の生の声を録音した。そのリールのテープは僕の手元にある。さらに英君は僕の撮影現場をスナップしているのである。
英君が水俣を離れて後、宇井純さんが到着したと連絡が来た。当時東大の大学院生だった宇井さんとは、同年の春に『朝日ジャーナル』高津幸男記者(副編集長)の紹介で面識があり、宇井さんとは別れ際に「水俣で会いましょう」と言っていた。彼が投宿している桐原旅館(鹿児島本線、水俣駅前/現在は別名)に僕も宿を移す。この桐原旅館は新日本窒素水俣工場の正門から数十メートルで、ストライキを決行している第一組合の「声」が自動車に備え付けのスピーカーから聞こえてくる。それは早朝から始まり「新日本窒素の合理化に反対する第一組合の抵抗の説明の主張」である。この巨大な音声の声を聴いて、宇井さんは「目覚まし時計だ」と、皮肉な一言を呟いたのを思い出す。
石牟礼さんの案内で「サークル村」
8月の盆前だったかと記憶する。僕が漁村部落での撮影を終えて夕刻に宿に戻ると、宇井さんが桐原旅館の前で若い女性と立ち話をしていた。地元の主婦、石牟礼道子さんを紹介される。短歌や肥後・薩摩で起きた歴史を執筆していると聞いた。その数日後だったと思うが、宇井さんと僕が呼び出された。水俣の知り合いを紹介したいという石牟礼さんの呼びかけである。市街の六ツ角から近い「丸木舟」と言う飲み屋に集合した。
この席の主賓は水俣出身の詩人・谷川雁であることを知った。僕は彼の存在を全く知らなかった。宇井さんには、「東大の先輩で、東大きっての優秀な学生だった」という認識があったようである。彼を囲む座に水俣市役所に勤める松本勉さんと赤崎覚さんもいた。水俣の石牟礼・松本・赤崎さんは谷川雁さんが主宰する「サークル村」のメンバーでもあった(その席でのエピソードは連載の後の回で記す)。
市職員で、労組でも活躍していた松本勉さん
今回は、そこで再会した故・松本勉さん(まつもと・つとむ 以下敬称略)の支援活動と僕の写真に関わる一つの“出来事”に焦点を合わせ、順を追って記述する。
1931年に水俣で出生した松本は1952年に水俣市役所に就職していて、その後は市職員労働組合でも尽力し、1960年代に入って組合の書記長に推される。1968年には「水俣地区労働組合協議会」の事務局長をも担っていた。
僕が水俣病の取材で記録した写真の発表は1962年の秋、富士フォト・サロン(東京・銀座)で個展『水俣病』で、続いて大阪でも巡回展が開かれた。この展示写真の枚数は105点、パネルは木製で厚みはサイズによるが2〜3センチはあった。写真展を終えて、新人カメラマンの住む都内アパートに保管すれば、足の踏み場もない。そこで、展示写真105点を水俣市に寄贈したのである。「寄贈」といっても正式の手続きを経た物品譲渡ではないため、僕の写真のパネルは荷物として職員組合の事務所で保管されることになった。
写真パネルの「活用」 日本政府がチッソのメチル水銀化合物を水俣病の原因と断定したのは1968年9月26日だが、水俣地区労の書記長を務める松本は、日吉フミコ・赤崎覚・石牟礼道子さんら水俣の有志達で同年に「水俣病対策市民会議」を発足し、その中心を担っていた。翌1969年の6月14日、水俣病の患者家族28世帯、112名がチッソを相手どり訴訟を起こした。松本の仕事は職務の領域を超えて訴訟を強力に支援する運動に移行していったようである。
訴訟を支援する市民のデモにプラカード等の宣伝媒体が必要なのは言うまでもない。水俣市で最初に訴訟を支援する街頭デモがいつ行われたかは知らない。おそらく1969年の秋頃か、1970年の初めと推測するが、その後、街頭デモは熊本市内の繁華街、さらに福岡、東京、大阪と全国で繰り広げられた。
松本は訴訟デモのリーダー格で、行動の企画案に冴えた感が思い浮かんだ、という。水俣市の労組の事務局の片隅に“放置”されている、僕が寄贈した写真群のパネルを使わない手はない、と発案したのである。
東京(1970)
事態の異変
僕はベトナム戦争の取材から帰国してテレビのニュースで、街頭での訴訟デモを見た。デモの先頭で僕が撮影した、あの松永久美子のパネルが掲げられているではないか。写真が役立っている、と小躍りしたのは事実である。しかし、それは長くは続かなかった。
この1970年は、撮影を開始した1960年から10年の節目で、再度、本格的な取材を試みて水俣入りをした。僕がカメラを取り出す前に、決まって行なう「儀式」がある。それはこれまでに知り合った患者家族に挨拶することだ。
患者が多発した湯堂の松永善一さん宅を訪れる。水俣の夏は暑く、漁家の戸口は開いていた。漁師の善一さんに「ご無沙汰してます」と挨拶して彼の顔を見て身がすくんだ。彼は開口一番に「桑原さん、友達じゃなか(友達ではない)と!」。その声は高くはなかったが、事態の異変を知る事になったのである。
※編注:筆者がその時訪れた湯堂の漁家は、訴訟をしない「一任派」の患者宅だった。水俣病被害の深刻さや真摯に生きる患者・漁民を活写した写真パネルは、市民会議のみでなく東京でも1970年代に活用した。被写体の患者家族の所属なども気にせず使っていたことは、支援運動側の重要な反省課題である。
研究者などとの交流会で
水俣病事件を研究する大学の先生や地元の新聞記者、一般の方で事件に関心を持っている人たちが年に一度、現地に集まって報告し酒を酌み交わす会が継続されていた。往年の参加者で物故者の氏名だけでも掲載したい。宇井純、原田正純、宮澤信雄、白木博次、坂東克彦、時により参加の石牟礼道子など水俣病事件に貢献した方々である。今回紹介している松本勉も今は故人だ。
熊本市内での研究会であったかと記憶する。僕が演壇に立つ機会もあって、訴訟の街頭デモで掲げられた写真パネルの件を持ち出した。聴取の出席者からは「著作権侵害だね」という声も聞かれた。しかし、僕は著作権を問うての発言ではなかった。事情の経緯を話したかっただけである。
僕が松本勉の名前を吐露した事から彼は重い腰を上げ「著作権の擁護ち、何も分からなかった、となー」低い声で呟いた。苦渋感を与えた事を申し訳ないと思ったが、事実の経緯だけは伝えたかった。訴訟の市民運動をリードした書記長、事務局長の彼に小さくは無いダメージを与えてしまった。
水俣市の職員として主に労組と市民会議に情熱を注いだ、文人でもある松本は退職後も患者の支援に当たっていた。第一訴訟の判決後のいつ頃かは定かでないが、患者と家族から聞き取りをしていると聞いていた。
松本は2000年代に入って著書『水銀(みずがね)』第1集を出版している。続いて4集まで、1集は非売品だが以降は定価¥1,000である(絶版)。
赤崎覚と共に谷川雁の弟子で、水俣で双璧の文芸人でもあったと言いたい。
2021年9月20日 記
前列右から5人目が松本勉さん。その後ろ右が筆者
(季刊 水俣支援 No.99より転載)