連載 Another Stories                                 桑原史成(フォトジャーナリスト)


第4回 ユージン・スミスさん


 今回は、世界的に著名な写真家のユージン・スミスについて記述する。ただしユージン・スミスの全作品にわたる論評ではなく、「水俣」に特化して撮影で現地を訪れる前後での出会いについて記憶を紐解きたい。


ユージンの水俣撮影情報

 ユージン・スミスが水俣病の撮影で来日するであろう、という情報は1970年頃に写真学校の2期後輩の元村和彦さんから聞いていた。学校では後輩だが5歳年長で国税庁に勤めての写真家志望であった。彼は、アメリカの写真家で日本の若い写真家志望の者たちに人気のあるアート(芸術)系の作家、ロバート・フランクの出版を思いつき渡米した。その時、手土産に僕の写真集『水俣病』(三一書房刊、1965年)を持参したのである。ロバート・フランクの友人であるユージンが、僕の写真集『水俣病』を見た、と言うのである。1970年に、僕は2冊目の写真集『記録・水俣病』(朝日新聞社刊、1970年)を出版していて、この2冊目は日本からユージンに送ったと聞いている。

 その翌年にユージンは、元村和彦の手配で写真展『真実こそわが友』を東京・新宿の小田急デパートで開催している(1971年9月3日~15日)。初日の9月3日(金)のレセプションに招かれて訪れた。この日は奇しくもニコンの最新カメラボディー「F-2」の発表会の日でもあった。

 巨匠ユージン・スミスから、しばらくして「会いたい」と連絡が来た。僕のメモには10月3日とある。そこでユージンの希望する時間帯に合わせて、日吉(横浜市)にある写真学校で、写真学生達と共に約1時間ぐらい歓談した。通訳は若い同伴の日系のアイリーンさんであった。僕と一緒に「報道部門」を担当する写真家の富山治夫さんも同席した。この2人(スミスとアイリーン)が結婚届を出したのは、後に9月9日だったようである。アイリーンは、僕と生徒たちの前で、開口一番に「昨夜、ユージンは睡眠が足りていない。『水俣』を撮影した先輩の桑原さんに会うので緊張していました」と、ジョークを飛ばした。

 ユージンは、ロバート・キャパと並んでの知名度の高い“グレート・フォトグラファー”である。写真学生達の感嘆ぶりは敢えて記述するまでもなかろう。


名作「スペイン村」

 僕がユージンの作品に興味を抱いたのは1950年代の後半で写真学校の時であった。ユージンはアメリカのグラフ週刊誌『Life』でエッセイ・フォトと言われるドキュメント写真を掲載していた。「カントリー・ドクター」(1948年に同誌に掲載)、続いて「スペイン村」(1951年掲載)。僕は、この「スペイン村」の写真に強く魅せられたものだ。第二次世界大戦の終結から数年、荒廃した寒村で紡ぎ糸を操る女性の作業である。この作品を目撃した時、写真が絵画を凌駕した、というような感動を覚えたものだ。僕の「水俣」の記録手法はユージンの「スペイン村」が手本になっている事は間違いない。

 この年の12月に、ユージンとアイリーンが滞在する水俣を訪れたいと急遽、現地に向かった。1971年12月5日のことである。この日の夕刻に後輩の写真家・塩田武史に会い、ユージン達が借家している水俣市袋の家を訪ねるが留守で会えない。その夜、連絡が取れて翌日の6日にウイスキーを持参して再度、訪れ杯を交わした。


ユージンの撮影スタイル

 会話の中でアイリーンから「市立水俣病院内で撮影が出来ないだろうか?」と要請された。僕は水俣市立病院の大橋登院長に直に依頼してみた。院長は、即座に「難しかぁ」と、にべも無い。その理由は、水俣病の補償に関わり訴訟と一任派に分かれ、さらに川本輝夫氏らの独自の自主交渉という複雑な情勢にあった事が挙げられる。行政側は、ユージンが訴訟派と自主交渉派に取材の拠点を強く置いていると認識していたようである。ところが、大橋院長は「桑原さんの依頼なら断れない」とも言い、僕は1つの提案を出した。院長の出勤時(朝の8時半頃)にユージンが、病院の玄関に立つ、そこで2度、3度目に彼を迎え入れる、という提案だった。そのストーリーをアイリーンに伝えた。その後で、電話で返事が来た。「アンフェアー(unfair)」と。ユージンの考え方である。日本語に意訳すれば「とんでもない話だ」と言うことであろう。僕の発想は東洋的な「三顧の礼」を持ち出しての案に過ぎなかったが、ユージンには受け入れて貰えなかった。ユージンの市立病院内での撮影は、大臣の訪問時の短い時間内での報道陣に随行しての取材に限られたようである。ユージンの撮影手法は、撮りたい相手と向き合い、時間をかけて自分の映像(写真化)するスタイルである。
















                 香川県坂出市の写真家・長田春男さんがユージン夫妻を撮影した写真(1974年8月13日)※提供筆者


LIFE誌の写真に驚く

 ユージンが、アメリカのグラフ週刊誌『Life』(1972年6月2日号)に「Minamata」を「Death-flow from a pipe」と題して発表したのを、僕はアラスカの最北端のポイントバローで知った。『Life』誌の見開きページに掲載された上村智子さんと母親の入浴写真に驚愕した。写真の全体がローキートーン(黒い)で、2人が入浴している。この圧巻の映像(写真化)と構図に圧倒された。僕は率直なところ世界の巨匠に負けた、と思った。ユージン・スミス渾身の傑作が撮られたのが12月24、25日頃であるとは2013年の山口由美著(*編注末記)から32年を経て知る事が出来た。それは僕がユージン、アイリーンを訪ねた20日後にあたる。

 ユージンを上村家に案内し「入浴」の場面を撮影する交渉ごとは写真家の塩田武史が行い実現した、と塩田さんが2014年逝去の前年に水俣で話してくれた。彼は、ユージンたちの撮影の合間は家の外で待ち、時に入浴の撮影の現場を覗いたとも言う。しかし、その現場をスナップ撮影する事はしなかった。日本人の常識、あるいはドキュメント写真の美学の面からも現実の生活の、しかも重症の患者の裸体にカメラを向ける行為に同意は出来なかったようだ。最近の事だが、僕は上村家を訪れた折に、さりげなくユージンの撮影時の事を聞いてみた。母親の良子さんは、「解らない英語が飛び交う中で、風呂に入っていましたな。長かったですなぁ(時間のこと)」と吐露した。助手を勤める石川武史さんは、どういう訳か撮影に参加していない。「入浴」の撮影は、期せずして突然に到来したように思える。僕の憶測だが、上村家にとっては通常の介護のレベルでの「入浴」という認識で撮影に同意したのではなかろうか。














『Life』(1972年6月2日)表紙。同誌に「The picture signature of Gene Smith」として作品が掲載された(筆者提供)


水俣・東京展

 ユージンの他界から18年過ぎた1996年9月28日から10月13日まで、東京・品川のJRの空き地で規模の大きい「水俣・東京展」が開催された。ユージンの名作「智子と母親の入浴の写真」はポスターやチラシに大々的に使われた。正確な情報では無いが、雨の日に配布された上記写真によるチラシが泥濘んだ地面に散乱していて、通行者が無慈悲にも踏みつけていた現場を、ご家族か、水俣の知り合いが目撃したようである。この「水俣・東京展」以降に、写真を撮られた上村家から写真の著作権者のアイリーンに写真使用についての意見が伝えられたようである。その後の詳細な経緯は知らないが、2年後の1998年10月30日の日付で「写真は使用しない旨の」書面が取り交わされたと山口由美の前掲書(*編注末記)に記されている。世界の『Life』の読者を震撼させた「入浴の智子」の写真は、この時をもって封印されたのである。この時点でユージンが生存していたら、対応は異なっていたに違いない、と僕は考える。ドキュメント写真で同業の僕には他人事とはいえ、明日は我が身の問題でもあり四面楚歌と受け止めた。

 20世紀の写真界で名作、傑作と言われる写真は幾つかある。この度、記述したユージンの「智子の母親の入浴」もそうだが土門拳の「筑豊の姉妹」もそうである。突出して知名度の高い作品には、ともすれば写された側からのクレームが出される事がある。巨匠、土門拳においても写された側の姉妹から「発表を控えて欲しい」という要望が出されていたようである。酒田市(山形県)にある土門拳記念館では対応に慎重を期していると言われる。


塩田さんとともに

 実は、僕もこの2人の巨匠が撮影した家族を撮影している。上村さんご家族とは1960年から撮影を開始しており友好関係は続いていた。恰もユージンの傑作に対抗するかのように僕もこの家族を撮らせて頂いた。

 ユージンの撮影からざっと5年後、1977年1月15日の「成人の日」に、智子さんの成人を祝う家族と隣人たちの「宴」を撮影、記録したものだ。

 先ず来訪者との集合写真を東京から持参したスポット・ライトのストロボで撮る。誰かの瞬きを心配しシャッターは3枚で終える。

 続いて智子さんと父親の好男さんを同じストロボで撮影する。父と娘に笑みが見られたのでシャッターは3コマで終了した。撮影時間は数分であったことから母親は「あれ、もう、終わりなすったと ?!」 その甲高い声に皆がどぅっと笑った。

 僕の隣で塩田武史も撮影していた。彼は『アサヒグラフ』に掲載し、僕は岩波書店の『世界』に掲載した。

                                           2021年5月24日 記

















                                               



*編集部注 山口尚美著『ユージン・スミス 水俣に捧げた写真家の1100日』(小学館 2013)には、写真封印に関連して『水俣・豊橋展』についての誤った記述があり、主催した市民の抗議に対して著者が謝罪文を記している。



(季刊 水俣支援 No.98より転載)


桑原史成

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