連載 Another Stories                                                   桑原史成


第3回 宇井純さん(新日窒付属病院で猫実験の事実を知る)


   水俣病事件に研究者として情熱を傾けた宇井純さんにスポットを当てたい。

 水俣事件で大きな足跡を残した宇井純さんが、1970年に東大の助手に就いて以降の状況と情報は一般に知られている。宇井純と言えば「公害原論」の一言に象徴されるのではなかろうか。

 ここでは東大の応用科学を出て化学メーカーの日本ゼオンに就職し、退社する。そして同じ東大の大学院に籍をおいた1959年頃からの、水俣との関わりを中心に筆を進める。


■1962「朝日ジャーナル」編集部での出会い

僕と宇井さんの最初の出会いは朝日新聞社の『朝日ジャーナル』の編集部であった。1962年に水俣の新日本窒素水

俣工場で労働争議が起きていて、その取材記事を掲載していた。それを読んだ宇井さんが高津幸男記者を訪ねた事から始まる。僕は、まだ写真界にデビューしておらず、同編集部との接触は無い。しかし、2年前の1960年に同じ朝日新聞社の『週刊朝日』が水俣病事件をテーマに特集記事『水俣を見よ』を掲載していたのである。僕は、その発売の直後に編集部の小松恒夫記者に会っていて、親しさも増していた。その小松さんから「紹介したい人がいる」と電話が来た。宇井さんと会った日は1962年の桜の咲く季節であったと思う。

 初めて朝日ジャーナルの編集部を訪れると、ややくたびれた学生服姿の若い学生がいた。高津記者が「東大で大学院生の宇井純さんです」と紹介してくれた。旧朝日新聞社ビルの7階にはレストラン「アラスカ」があった。ここで2人の記者と共に会話が弾んだ。宇井さんも水俣を調査していて、席の全員が「水俣」については共通点があり、いわば連帯感があったように思う。そこで、宇井さんとは夏に水俣に行く約束をして別れた。


■1962夏の水俣行き

 その1962年秋に東京の銀座富士フォトサロンで僕の『水俣病』写真展が決まっていたため、追加撮影で宇井さんより一足早く水俣入りした。最初の2、3日、写真学校で同期の英はなぶさ伸三君が、ソニー広報課を退社していて僕の撮影を手伝ってくれた。英君が水俣を離れた後、宇井さんが待つ鹿児島本線・水俣駅前の旅館の桐原(現在は経営者が変わって桂旅館)に宿を移した。

 水俣は、新日本窒素(1965年からチッソ)水俣工場の労働争議で第一組合はストライキに入り、一方の企業はロックアウト(工場閉鎖)を取り、市の中心部の商店街やタクシー会社、さらに呑み屋まで2つに別れていた。桐原旅館は工場の正門に近いために、労組の集会やデモの進行具合が騒音を聞くだけで把握出来ていた。僕はカメラのバックを担いで飛び出すが、宇井さんがデモの現場に現れる事はなかった。宇井さんの調査と僕の撮影取材は目的が別で、共に行動する事は少なかった。


■二人で新日窒附属病院を訪問

 8月11日に新日窒の付属病院を訪問するのだが、前日の夜、宇井さんが「あすの午前中、時間を下さい」と言う。それに「カメラは1台を」と付け加えたことを記憶している。

 午前10時ごろ付属病院にタクシーで着き、宇井さんが接触したのは若い医師の小嶋照和さんであった。初対面での会話が続き、「実はこういう実験をやっています」と、小嶋医師はルーズリーフを取り出した。それは社内研究の「水俣病原因物質の追加試験報告書」なのである。小嶋医師が何ページかをめくっている時、看護婦さんが小嶋先生を呼びに来た。そこで医師は席を外し奥に消えた。

 宇井さんは、僕に「カメラ、カメラ・・・・」と小声で言う。「ここ、ここ」と宇井さんが指差すページ、僕はそのページをすかさず“盗写(複写)”する。20枚近くを撮影したところで先生が戻ってくる足音が聞こえた。僕たちは“写しの作業”を終える。宇井さんは病院長の細川一さんに会えるかと期待していたようであるが、院長は既に退職していた。僕がこの写真の中身の重さを知るのは、2年余の後の事である。

 小嶋医師を宇井さんに紹介した人は東京大学の応用科学を出て新日窒に就職した後輩であることは、水俣で彼を囲んで食事に同席した事から伺える。企業「新日窒」にとって、熊本大学は“検察官”、一方の東京大学は“弁護士”と映っていたようである。旅先での夜、酒の席で宇井は「東大の宇井」で得をしている、と苦笑していた。東大の田宮猛雄名誉教授〈化学工業会の重鎮〉の存在を有利に受け止めていたように思われる。化学企業の側に立った学者では「アミン説」で原因究明を混乱させた清浦雷作東工大教授も有名だが、1962年の僕の写真展を彼が見に来た時は驚いた。しかし、宇井純さんは足尾鉱毒事件の田中正造のようになっていく。


 宇井純は、35年後、1997年に、小中学生を読者層に発行するポプラ社のノンフィクションBooks 2で『キミよ、歩いて考えろ』を出版している。この書籍で宇井は、「手がかりをつかんだ」の項で「前回の訪問の時、何か手がかりになりそうに思われた工場付属病院を訪れて、細川院長に会おうとすると引退していた(中略)。若い真面目そうな医師が出て来て、「会社からは“秘密”と言われているので、と言いながら話してくれた」(p120)。このページの終わりに「・・・・つまり工場の中で、水俣病の原因は工場廃液水の有機水銀だった事を、疑う余地なく証明した報告書だった」と記している。

 僕についても記述している。「・・・・桑原さんは得意のカメラで、その報告書の写真を撮った。私は自分のノートに、必死になって、その内容を書き移した」とある。宇井がこの原稿を執筆している頃は沖縄大学教授の籍にありながら、事実の記述に戸惑いがあったものと推察する。猫実験の事実を知って、宇井がその一端を最初に記述したのは総評の傘下・合化労連の機関紙『月刊合化』「書かれざれし一章」の項で辛うじて碧凛を伺わせる記載が最初になる。合化労連の書記に近藤完一さんがいて、宇井に助言を与えていたのを、僕は横で見ていた。彼は僕にも多くの示唆を与えてくれた。


■1964 四国・大洲に細川医師を二人で訪ねる

 1964年3月1日、水俣での衝撃的な“遭遇”からほぼ2年が経ち、宇井さんが僕を連れて四国・愛媛県の大洲市に帰郷した元・新日窒病院長のか細川一医師を訪ねた。細川先生と宇井さんは、以前に一度だが水俣で対面していて細やかながら友好はあったことが幸いしている。僕たちは夫妻に歓迎され食事の後、細川家に投宿した。

食事の後で宇井さんは細川先生に「実は、こういうデータを持っていますが、事実でしょうか」と切り出した。僕が撮影した写真のベタ焼き(コンタクト)を脇に携え、続いて「嘘ならノーと言って下さい、イエスなら黙っていて下さい。それで充分ですから」。会話はここで途切れ、お酒の杯が続いた。

 「愛媛の日本酒は美味しいです」と、僕が雰囲気を取り持つ。僕の予感だが、細川先生は小嶋医師から追試のリポートを宇井さんに見せたという報告を受けて事情は知っていることが伺えた。


■より重要な「1959実験データ」があった

 翌朝、僕たちの帰り間際に細川先生が宇井さんに「君たちが持っている、そのネコ実験記録より前のデータが有る」と。それは宇井さんにとって天地を揺るがす衝撃的な一言だった。1959年7月21日から水銀廃液を猫に直接投与し、その年の10月6日に400号猫の発病を確認した事である。宇井さんと一緒に水俣の病院で撮った記録は、そのネコ実験の、追試の記録だったのだ。


 もう一度、宇井純『キミよ歩いて考えろ』に戻る。「細川博士の声は、落ち着いて冷静だった。キミの持っている報告書は本物だし、キミの結論も正しい。そこまで、突き止めたいのならば、私も本当の事を話そう。(中略)、実は水俣病の原因は解っていたのだ。熊本大学が有機水銀説を発表する少し前から、私も水俣工場の排水を疑っていた。(中略)、工場長に頼んでもう一度、工場排水の実験を始める許可を得た。外部に結果を漏らさない事を条件に、(中略)、キミの見つけたのは、その2度目の実験の報告書だ」(p124)。


 後にメディアが、この細川一院長の実験を「400号ネコ」と報じているのを知った。大洲の自宅で細川氏は猫の発病の事実について宇井に吐露したが、「400号」と言う単語を発したかどうかは定かでない。細川氏が発した重い結論の言葉は、学者宇井純に取って千載一遇の“極秘情報”であった事は言うまでもない。

 僕がカメラで複写した2年前の1962年8月11日、宇井純さんにとって“その時、歴史が動いた日”であつたのではなかろうか、と思う。そして今、しかし、この“盗撮“の一件について事実を口にする事も無く、また具体的には記述していない。どこかに一種の負い目を覚えていたに違いない。そして僕は幇助者である。もし、マス・メディアで吐露していれば重大なトップニュースになった事は言うまでもない。

 宇井さんと細川先生との交友は続き、新潟で発生した水俣病で坂東克彦弁護士を紹介し、調査(1965年)に参加を勧める。坂東弁護士は細川一氏の死の間際、水俣病一次訴訟の臨床訊問に尽力した。


 宇井は、1968年に『公害の政治学―水俣病を追って』(三省堂新書)を出版する。カット写真の掲載に際して僕も協力した。さて、この著書で冒頭の書き出しで小見出しに「細川医師の不吉な予感」とあり、1956年5月1日に水俣保健所の伊藤所長に「事態の異変を告げる」歴史的な記述はあるのは言うまでもないが、細川医師が自ら実験を試みた経緯は、どこにも記述されていない。


 出版の3年前の1965年6月に宇井さんは細川一医師や朝日ジャーナルの記者を連れて新潟の阿賀野で患者の桑野忠吾さんを訪ねた。僕は2年後の1967年に桑野さん一家を撮影している。宇井さんが弁護士の坂東克彦と知り合うのは1967年で、彼が細川一医師の存在を紹介する。後日、坂東弁護士は大洲を訪れ「猫実験」のノートと対面する。かつて新日窒病院長の職にあった細川一医師が、死の3ヶ月前の1970年7月4日に東京・池袋の癌研附属病院の612号室で水俣病訴訟の原告団の要請に応えて坂東弁護士の臨床尋問に応じたのである。


■「冷遇は厚遇」

 宇井さんは1985年、15年にわたって孤軍奮闘の自主講座を終了し沖縄大学に移る。この最終の日を撮影、記録したので掲載する(右写真)。


















 彼は1968-69年、WHO招聘でオランダに留学している。この1968年は、鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争と徳川幕府終焉から、ちょうど100年目にあたる。他方、彼の留学と東大紛争の激動期は奇しくも同時期である。もし日本にいたら、彼はどのように対応したのであろうか。僕は、ついにそれを聞き忘れた。


 しかし、1965年に新設の都市工学科の実験助手の籍を得て1986年に沖縄大学に教授として移籍するまで、東京大学では“万年助手”と揶揄されながらも、冷遇は“好遇“と受け止めて奮起しているように、僕には映っていた。                            














                             環境省(2004年10月)





















                     関西訴訟判決の最高裁前で。右は坂本しのぶさん( 2004年10月)




(季刊 水俣支援 No.97より転載)


桑原史成

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