連載 Another Stories                                   桑原史成(写真と文)


第2回 土本典昭さん(「記録なければ事実なし*」と言い続けた記録映画監督)

 *記録に残さないと事実がなかったことにされる、の意。社会派ドキュメンタリー制作者としての信念。

 

 僕が土本典昭さんに初めて会った正確な日は定かでないが、1970年安保闘争のほぼ真っ最中だった。「水俣の事で会いたい」と連絡が来た。彼がどのような職種かは知らなかったが、霞ヶ関ビルと地下鉄の虎ノ門駅に近い喫茶店で会ったように記憶している。

 かつて岩波映画に所属し、日本テレビで『水俣の子らは生きている』(1965年)という短い番組を制作されたようだった。静かな会話を通じて新たに記録映画を撮るものと見受けられた。

 映画の製作は、個人であれ独立プロであれ、監督をはじめ撮影カメラマン・録音・プロデューサーなどクルーに要する取材経費、16ミリフィルム、その現像料、また撮影機材のレンタル料を加えれば、当時でも千数百万円は下らないであう。

   そして1971年に独立プロとしての第一作『水俣 患者さんとその世界』を完成させた。

 以降の彼の華々しい活躍や足跡は広く知られているが、ここでは記録映画の表現世界とは異なる、写真の表現と使い方のことを軸に稿を進める。


1971『水俣 患者さんとその世界』

 以降の記述には敬称を略させて頂く。

 土本典昭は記録映画の画面に、業病で他界していった数多くの患者を登場させる為に、死者たちの“遺影”を借用して映像化させなければならない。写真資料の活用は記録映画の基本であろう。最初の作品『水俣 患者さんとその世界』では、田中実子の姉で既に他界している静子、故釜鶴松、故平木栄、さらに何人かの遺影写真が登場する。

 ドラマであれば役者を登場させて展開させるが、記録映画には、過ぎ去った過去については記録(フィルムか写真)が無ければ表現が出来ないという宿命がある。土本は1970年代の記録映画の制作で死者たちの遺影を入手する必要性を強く感じたようである。1990年代の中頃までに彼が監督で制作した「水俣」に関する記録映画は、10本余にのぼる。

 1994年、水俣病の記録映画で言わば一区切りのついた時点に差しかかり、彼は「遺影の展示」という新たな可能性に着眼した。土本は僕に熱い思いを込めた私信をくれた。「挨拶を兼ねて」の書き出しで、「・・・今までの水俣病に関する記録表記を集積し、それを水俣に如何に残すかが課題です。・・・・私はこの空間構成『記憶と祈り』(写真展)の企画提案者ゆえ、・・・・宜しくお汲み取り下さい」(1994年10月12日)。更に、「私の個人負担でやれるところまでやります。・・・そんな物を作って、水俣の何処に置くのか・・・・撮影した「物」(注:遺影の複写)が残っていれば、後はどうにかなります」。彼の口癖の「記録無ければ事実無し」の語そのままの熱意であった。


遺影展『記憶と祈り』1996~の好評と苦難

 僕は土本典昭の熱い思いに応えて手持ちのフィルムの中から10数人の患者の写真を提供した。この遺影の企画展示は、1996年の「水俣・東京展」(水俣・東京展実行委員会主催)で公開された。水俣・東京展には、遺影の企画とは別に僕は水俣事件の記録写真の展示に協力してきたが、遺影写真コーナーの壁面は線香の匂いも感じるような独立した不思議な空間で、約500点の遺影が飾られた。東京都写真美術館(2000年)にも展示されている。首都圏からの来客には好評を受けた事は間違いない。

 写真美術館展示の翌2001年、水俣市で「水銀国際会議」が開催され、非営利団体の水俣フォーラムは地元で念願の「水俣展」を企画した。土本典昭の「遺影」展示も里帰りである。しかし、地元の反応の一部は冷ややかだった。約500人の遺影を展示する予定だったが、70人余の犠牲者の遺族が難色を示し、展示の辞退を申し出た。今なお差別や偏見を恐れる遺族の複雑な心境が浮き彫りにされた、と新聞記事が伝えた。展示予定のうち、30人の遺影写真の返還を求めた「水俣病患者平和会」(石田勝会長)は、「患者の認定は受けたいが、他人には知られたく無い」と報じられている。当時の水俣市役所の職員は「市が仮に保管するにしても“遺影”は物が物だけに粗末には扱えない」と吐露している。

 僕が国際会議の取材の合間に展示会場を訪れると、幾つかの遺影写真の部分が黒い紙で覆われていた。監督・土本典昭の熱い志とは裏腹としか言いようが無い。土本典昭をはじめ制作に関わったスタッフによる患者の生前の撮影が存在すれば自ずと著作権が発生するが、遺族から借用の写真では交渉が難しくなる。

 展示の写真で、黒い紙でカバーされた写真は遺影写真だけではない。水俣事件を紹介する別の展示の、本来の展示コーナーの壁面でも見られた。僕が撮影して展示予定の写真についても、現地水俣での展示に際して複雑な地元の反応は事前に予測し、ほぼ理解していた。そこで主催者側の「水俣フォーラム」に、何点かの写真の展示を断わらざるを得なかった。水俣の事情とは――遺族一人一人の心情まで把握していた訳ではないが――1969年の最初の水俣病訴訟の時に患者会が分裂し、一方の「一任派」の家族・遺族にとって、土本典昭の映画制作は「訴訟派」を擁護する運動と映り、疎ましく感じていたのかもしれない。

 土本は、僕にも手紙を寄越した1994年10月12日付けで、協力依頼を書面で発信している。その文面では、「群像パネル『記憶と祈り』の制作にさきだち」と題して熱い思いの文言をちりばめている。・・・・「東京展の場合も、私の『記憶と祈り』の発想は同じです。この時点で死者は1090人(熊本、鹿児島)、未処分者の死者は447人、合計1500人余です。・・・・遺影写真は、お寺で言えば山門の五百羅漢さまみたいなものです」。更に、ベトナム戦争やカンボジアでポルポト派に殺害された人々についても記し、沖縄・ひめゆり館には死んだ女学生たちの写真、と丁寧な解説が書き込まれている。

水俣現地での遺影展示が修正を余儀なくされたとはいえ、彼が、被害者・受難者の記録を映画や写真で残そうとし続けたことは、まさに「記録なくして事実なし」との信念で貫かれたものだった。














                        水俣市での水俣展(2001年)


1988アフガンで土本映画班と出会う

 土本典昭さんが他界して今年で13年になる(2008.6.24 79歳で逝去)。僕より8歳年長の彼が僕への私信に時に「大兄」と記していた。僕は同じテーマの「水俣」を先に手掛けた、言わば時系列で最初の順番に過ぎない。

 1988年に、旧ソビエト連邦の軍隊がアフガニスタンから撤収する時期に首都のカブールを訪れた時、期せずして土本典昭さんに再会した。映画班は、後に公開する『よみがえれカレーズ』を撮影していた。宿が取れない事を僕が話すと、取材チームが借りていたホテルの一部屋を融通してくれたのである。戦場下のカブールで、夜は「水俣」の話題で多くの会話をしたものだ。僕のアフガニスタン取材は岩波新書『報道写真家』の最終稿のためだった。

 土本典昭さんが残した「水俣」の足跡は大きい。事実の歴史として、間違いなく後世の貴重な遺産になるであろう。

                                              2021年1月10日















                 アフガニスタン・カブールでの土本典昭さんと映画クルー(1988年



(季刊 水俣支援 No.96より転載)


桑原史成

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