連載 Another Stories                                 桑原史成(フォトジャーナリスト)


第7回 原田正純医師(現代の “赤ひげ先生”)


今年は十周忌

 この6月11日は、医師で文筆に長けた原田正純さんの10周忌に当たる。この日の朝、水俣の永野三智さん(相思社)がSNS(FB)で、故・原田さんの足跡を長文の稿で発信していて、僕は「もう10年の歳月が……」と気づいたのである。

 僕が原田正純さんの存在を知ったのは、水俣病事件の取材を開始して10年余が経過した1970年代に入ってからの事ではなったかと記憶する。1972年暮に岩波新書『水俣病』を出版されたことで彼の存在を知った。岩波新書『水俣病』の巻末には「参考文献」の項がある。その項の冒頭に「桑原史成『水俣病』写真集、三一書房、1964年」とあるのに気付いていた。

 この後、原田正純さん(以降は敬称を略す事もある)がメディアの雑誌などに寄稿する水俣病事件についてのコメントを見受ける事があった。その中の一つに僕についての“風説”が紹介されていたのに苦笑したことがある。その稿の初出の印刷物は手元にないので、同じ内容を掲載している『いのちの旅「水俣学」への軌跡』(岩波書店、2016年刊)から引用する。

 「水俣を見続けて」の項で48頁、石牟礼道子『苦海浄土』や『椿の海の記』への言及の続きに、「患者の家に行くと“今、カメラを持った学生さんが来ていた”とか、“カメラマンの卵が海岸にテントを張っている”という噂をしばしば聞いた。でも遭遇することはなかった。写真家の桑原史成さんだった。彼の写真はまさに水俣病の歴史を正確に切り取っている。その写真が水俣病闘争に与えた力は計り知れないし、あの時あの状況で、彼だからこそ撮れた写真である。わたしは彼の写真には親しんでいたが、桑原さんと対面したのは35年後のベトナムであった」。この項の後には、故・宇井純の事が記載されている。


















初の出会いはベトナム

 僕が原田正純医師に、初めてお会いしたのは2000年の11月、ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン市)のホテルのロビーであった。僕は日本の写真家達と共に隣国のカンボジアに向う乗り継ぎの合間だった。原田医師は、ベトナム戦争時に米軍が散布した枯葉剤に因る後遺症の調査で滞在されていた。水俣から同行者には僕も知り合いの方が何人かいられた。日吉フミコさん、他に坂本フジエ・しのぶさんもおられたように記憶する。

 故・原田医師についての足跡を、ここで詳細に記述しなくとも多くの読者の皆さんはご存知であると考え、僕は別の側面を覗いてみることにする。ベトナムのホーチミン市でお会いした時は、1955年から44年間の熊本大学在籍に終止符を打ち、熊本学園大に移籍して2年目の時である。その後に開かれた「水俣病事件研究会」(第6回)の会場が熊本学園大で、僕も参加した。

 教授として熊本学園に移籍した年は1999年と思われ66歳の時である。原田さんは、「水俣学」と言う目新しいネーミングの「講座」名を学園大に提唱し、水俣病事件を検証する新たな研究を推進していった。


熊本学園大の「水俣学」講座

 2002年の初秋から学園大で開講された「水俣学講座」は、第1回は原田正純、花田昌宣「公開にあたって」で始まり、第3回は、「チッソの企業史」で宇井純、第4回は山下善寛「チッソ労働者」。そして第5回に僕が「水俣を記録して 1960~1997」の表題で招聘された。

 冒頭の挨拶で、原田教授は「水俣の漁村でテントを張って・・・」と、肥後弁(熊本地方の訛り)で僕を紹介してくれた。受講の学生さんから爆笑に近い声が上がったのを記憶している。この時、原田正純は天性のエンターテイナーの素質を持ち合わせた人だと思ったものだ。以降、この「水俣学講座」は継続され、日本評論社から講義の記録が出版され、僕の講義の内容も記載されている。これまでに水俣病事件に関わり足跡を残した人達の声が伝わってくる。

 原田正純がまめな執筆、そして秀れた筆致で多くの書籍を残した事に驚かないではいられない。その一方で陰口とも言える声を聞く事もあった。具体的には熊本大学に在籍時代の事である。岩波新書で『水俣病』が出版された1972年は、原田正純が講師から38歳の若さで助教授になる年である。水俣病の原因究明に深く関わってきた熊本大学の教授陣の中から “やっかみ”、あるいは反発の声があったと聞く。熊本大学で早出の異色な“風雲児”であったようである。

 2002年以降は、毎年の正月に開催される水俣病研究会で原田さんに会う機会が生まれた。会合の後の食事や酒の席で多くを語り合ったものだ。会話の中で声高な笑い、絶えることのない優しい笑みは、千両役者のようにも映る。そして穏やかな話術がほとばしるようで心地良い。水俣病事件での医師また研究者としての患者への対応が、「患者寄り」と批判もされたようだが、彼の生き方を“現代の赤ひげ”と、僕は敢えて称賛したい。


豊かな「書き手」たち

 水俣病事件に関わった先達には筆力に長けた方が多いのに驚く。年長者から順に記述する。先ず『苦海浄土』に代表される石牟礼道子、その石牟礼の元の表題『空と海のあいだで』を講談社に売り込み、書名を「苦海浄土」と命名した上野英信は『追われ行く炭坑夫たち』が代表作品。この上野が指導した岡村昭彦は『南ヴェトナム戦争従軍記』で知られ、水俣の茂道て杉本一家を取材している。さらに記録映画の監督・土本典昭、「公害原論」の宇井純、そして当稿の原田正純である。

 ここに記載した先輩達とは生前に多かれ少なかれ友好関係にあったことを幸せに思う。しかし、いずれも故人となったのは誠に悲しい。

2022 .6 17



                     








                                          岩波新書 左から、原田黄版・桑原赤版・原田・岡村・上野青版



(季刊 水俣支援 No.102より転載)


桑原史成

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