2004年5月


山が歩く、考える(1)—「道」そして歩くこと


  井澤賢隆(早稲田速記医療福祉専門学校教員・NHK学園講師・哲学)




 山の道は人間の大きさというものをそのまま知らせてくれる。もちろん、私は自然の雄大さに比べて人間はいかに小さな存在か、などという楽天的なことを言いたいのでは全くない。都会の街中を歩いている時にはほとんど気付くことはないが、人間にも動物としての大きさがあるのであり、里道の延長のような広い山道でないかぎり、山の道幅は人間のこの動物としての大きさの幅そのものでできている、ということをまず述べたいのである。

 この幅は意外に狭く、二十五センチメートル弱程度のものだが、これは肩幅ではなく、歩いている両足の横幅に相当している。歩くことの基本を身体の大きさから言ってみると、まず何よりも両足の横幅が通行でき、それをいかに運ぶかというところにその出発点を置くことができる。肩や胴体の幅はその後から生じる問題である。したがって、例えば夏の低山などの藪道では上半身はほとんど覆いかぶさる灌木の枝を振り払って歩かねばならないし、一面笹に蔽われているような所でも、もぐって根元を見てみると人間の足幅の道が続いているのがわかる。もともと「けもの道」を人間が利用して山道ができている場合が圧倒的に多いのだろうが、人間のつくる道も毛が服にかわっているとはいえ、やはり人間という動物としての「けもの」の道なのである。

 ところで、山道は基本的に谷道(沢道)、尾根道、そして巻き道の三つに分けられると私は考えている。山道のつけられ方は驚くほど合理的だ。それは動物としての人間の身体のあり方と山の地勢との折り合いの結晶と言ってよいものである。狩猟を主とした縄文人が山を生活の場としていたことからもわかるように、山道は何よりもまず生活の道としてつけられた。その山をいかに労苦少なく合理的に登り、また向こう側に越えていくか、そこに峠(乗越(のっこし))という、山と人間の知がそのまま結実したような場所もできあがる。

 例えば、山の向こう側の里などに行く場合、あえて危険な山の領域に入ることなくそこを迂回し、平坦な野を歩く方法が考えられる。これが「巻き道」である。この道は山の持つ斜度や森、林、藪などの障害と格闘する必要がない分だけ苦労は少なく安全性も高い道だが、山自体が大きくて裾野が広いような場合、向こう側にまわるのに時間がかかり、その間の食料調達を考えなければならない心配はある。そこで時間的な合理性や疲労などの度合いを考えて、端的に山を越えて向こう側に速く辿りつける道をつくることになる。その場合、向こう側との距離ができるだけ短く、しかも越える場所は尾根の最も低い鞍部(タワ)が安楽度の高い道となる。

 しかし、そこに行こうとする時、いきなり直線的に進むわけでもない。山の地勢を把握してできるだけ障害が少なくわかりやすい、つまり辿りやすい道をつけることになる。まず谷筋がそれだ。谷はもともと氷河や流水によって削られることでつくられたものだから、今でもそこは大概水の流れる沢筋でもある。そこは人間が入る以前から水脈によってその分だけすでに切り開かれており、最初から障害は一つ少ない。これは自然の造った「水の道」である。水は高きから低きへと流れているわけで、その縁を麓から辿って行けば自ずと山の上部へ進むことができる。しかも生命維持に不可欠な水と食料(魚)もそのまま現場で確保可能だ。つまり二重の意味で安楽な道なのである。そして、沢の水が地下水脈となって涸れた地点から直接一番低い尾根にとりつけばよい。これが「谷道(沢道)」である。

 おそらく、この「水の道」こそが道そのものの原型であろう。人間が水を求めて川や沢に出合った時、その水脈によって初めて逆に「道」という概念をつくったと言ってよい。道はもともと「水地(みち)」という、水の領域にあったものなのである。そしてこの「水地(みち)」のあり方を見定めようとした時に、その最初(始源)と最後(目的)を捉えようとする遠近法や因果律、全体性などの思考法が起こったと考えられる。それにしても「水の道」は例外なく山から始まり海に辿りつくという事実は興味深い。そここそは生命発生の源だからである。近代登山が、登攀する山の高さを競ってそのピーク(頂上)を目指したのも、この始源を求める過剰な欲望と相即している。また、人間のつくり出した最初の道も、この「水へ(、)の(、)道」としてできあがったと言えるだろう。

 さて、三番目の「尾根道」である。谷筋とは逆に尾根筋は、登るものにとって常にその時空点における山の最頂部であり、その意味で山の地勢をその都度確認できるわかりやすい場所であるから、ここに道をつけることは理にかなっている。特に両側が険しく切り立ったような山は、尾根を行くことこそが滑落を防ぐ最上の方法である。また、一旦、峠という尾根の鞍部に出てそこから山の頂上を目指す場合、尾根道がわか

りやすいとともに最短距離であることが多い。

 このように、山の道はこの谷道(沢道)、尾根道、巻き道の三つが基本となっている。尾根道を歩いていてそこに大きな岩が立ちふさがっているような時、それを直接よじ登っていくのはそのまま尾根道を続けることになる。一方、これを避けて横にまわりこむルートをつくる時は巻き道を行くことになる。この三つの道は目前の小さな場においても同じであり、このあり方は動物としての人間の身体性と山の地勢との関係からもたらされた現実的な「発想法」と言ってよいものである。すなわち、「谷道(沢道)」は「水の道」を辿ること、「尾根道」は山の背の形態をそのまま歩いていくこと、「巻き道」は時間や体力の節約を考えながら平坦な道を求めること、これがその要点である。

 したがって、山を歩いていて道に迷った時や自分の今の位置を確認したい時などは、この三つの発想がコンパスの基本となる。特に迷った時はこれに沿って修正することが自身の安全性を高くする。岩稜や雪稜でのルートファインディングも基本的には同様である。踏み跡のない雪稜を行く場合、雪庇やクレパスなどの危険個所を察知し、雪崩を避ける知性と感性も必要だが、どの尾根筋を辿り、どこを巻いていくかという発想が道を切り開いていくことになる。

 この観点から今ある山道を歩く時、その山の地勢とこの三つの発想の見事な折れ合いにおいて道がつけられていることにいつも感心させられてしまう。それをなぞることは、山との関係において動物としての人間の身体感覚をそのまま体現することだと言ってよい。

 もし、他の動物、例えば狼や鹿などがその山を乗り越えようとするとしたならば、人間との体型の相違や餌との関係などズレはあろうが、発想は同じなのではなかろうか。人間が「けもの道」を発見できるのも、そのような発想の共通性からなのではあるまいか。ただし、眺望を得る以外の目的でのピークハントのような過剰な欲望は、動物にはないと想像できるが。そのように山道を歩く時、人間の体感は自身の身体性との相即において、もしそう名付けることを許されるなら、「山の身体性」とでも言うべきものをそのままなぞっているのである。いや、逆に山のそのようなあり方に直面している時にこそ、人間は自身の動物としての身体性に気付き得るのである。

 山の道は土はもちろん岩や氷雪であれ、それぞれの柔らかさを持っている。また、そこには一つとして均質な所はない。起伏、凹凸、傾斜等も含め、地を踏むということはそれらの差異をそのまま感受し、それを次の一歩へとフィードバックしていくことである。人間は舗装道路ができるまで、そのような繊細な歩き方をしてきたはずだ。

 辻まことは例えば次のように述べている。

  「追う狩人は、追われる獲物がもし一頭の鹿ならば、自分もまた一頭の鹿の体感で山を行く自分を駆使す

  る。そしてしばしば自分が一頭の鹿になり得ることに驚嘆し、その世界の新鮮な香りに震える。」

(『山 で一泊』)

 ここで注意したいことは、人間が一頭の鹿になり得るのは山の中においてだということである。鹿が山の中を歩くその道筋や歩き方をなぞり、その時々の山のあり方(身体性)に直面することによってこそ動物としての鹿の体感を感受できるということである。その山は、人間のつけた道を歩いている時とはまた異なった姿を見せているに違いない。その差異が実はそれぞれの動物の身体性の差異でもあるのである。人間が鹿になり得るのは、この差異を体現できた時である。



 だが、道について、歩くことの基本にもっと忠実に帰って考えるならば、我々は今のところ地球上(、、、)を歩いているという事実を忘れてはなるまい。つまり、歩くことの基本はまず地球の重力とのバランスにおいてある、ということである。人間のように直立して二足歩行をする場合、常に地軸に対して垂直に、つまり縦の方向に足を踏み出すことが転倒しないコツである。われわれは歩き方の要領など普通教えられはしないが、山道や雪道を歩く場合、これを意識せざるを得ない。急な坂道を歩く難しさは、踏み出す足の方向が傾斜する地表の角度に沿ってしまうことによって、重力と平行する縦軸方向を維持できなくなるところにある。そしてそのような時、滑って転倒したり滑落したりすることになる。これは重力の他に慣性の力が増大することとも相即する。普通の歩き方において慣性はほとんど問題にならない。なぜならば、競歩でもない限り、速度が遅いからだ。だが、これが走る場合になるとそれは大きなファクターとなってあらわれる。ここで言う慣性の力とは、主に人間の身体を横に移動させる水平軸へと働く力のことだ。動物は、動く機械類(車など)も含め、この重力と慣性の力と自身の身体性、移動する場との関連の中で常に動いている。そして、それらの関係のあり方が移動するときの体感を決定していると言ってよい。

 新幹線などに乗っている時は、その土地その土地の土の感触や起伏などの場のあり方を感受できるはずもなく、また座っていることによって重力を慮る必要もない。ただただ直線的な慣性の力に身を委ねている以外にない。現代人の身体はそのような慣性の力に大きく慣らされ、重力という縦の方向性に対し鈍感になっている。重力は坂道や山道などの傾斜した場所や自身が走り出すような時にはじめて気付き得るものである。その時こそ身体のバランスを強いられるからだ。

 例えば、フリークライミングにしても地軸に向かうこの重力への意識が重要だ。そのような方向において身体が何らかの形でわずかでも支えられている時、それを支点にして登ることができるし、そのことこそが滑落や転落を防ぐ最大の方法なのである。

 現代の道はすでに谷道(沢道)、尾根道、巻き道という発想から離れている。技術の進歩によって、それは山や人間の持つ身体性からではなく、電車や自動車の身体性を基にして時間的、経済的効率という発想からつくられる。したがって、現代の道はどうしても水平で直線的なものになっている。山があればもはや迂回どころではなく、トンネルを掘って真っ直ぐに進む。低い山並みならば地をならして平地にさえしてしまう。これは、歩くという重力重視の方向から、走るという慣性力重視の方向への転換という思考でまとめることもできるだろう。そのことによって、現代の人間は拡大され均質化されたかつてない身体性を獲得したと言ってよい。だが、その膨大な幅を測定する身体の基準は、やはり山道を歩いているあの重力を基点とした動物としての人間の身体性にあることを忘れてはなるまい。


(初出=『批評衛星』5号・(学)川口学園・2000年5月1日発行・一部改稿)

批評誌クアトロガトス

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