06年8月


劇評 チェルフィッチュ『目的地』


  吉野万里雄(東京大学大学院表象文化論専攻修士1年)



 チェルフィッチュの『目的地』は神奈川県北部に位置する港北ニュータウンという「郊外」を舞台にした作品である。物語は新婚夫婦の妊娠を軸に、虚実入り乱れながら展開する。ただし、言葉と身体がたえず横滑りするような独特の作劇法については既に多くの批評が見られるうえ、今回もこの点に関しては大きな変更点があったわけでもないので、敢えて触れることはしない。

 しかし、『目的地』にはある重要な変化が見られた。それは、チェルフィッチュの舞台上におそらく初めて「廃品」が登場したことである。それまでのチェルフィッチュといえば、『三月の五日間』におけるイスや、『ポスト・労苦の終わり』におけるマイクやビデオカメラ、テレビ、俳優が舞台上で飲むジュースなどに見られるように、消費されるべき「商品」のみが用いられてきた。これらの「商品」は物語の中で小道具として用いられるのではなく、コンクリート剥き出しの素舞台と同様に、後期資本主義の大量消費社会における「均質性」を担保するものとして機能してきた。つまり、舞台を組み、写実的に描かれた一風景や抽象的なイメージによる舞台セットを作り上げることで虚構をたちあげるのではなく、コンクリートに囲まれたどこにでもあるような空間に、大量生産され、どこにでも売っているようなイスやジュースを配置することで、これらの「商品」を観客の日常生活とほとんど同じレベルにおくことを可能にしたのである。チェルフィッチュの作品が虚構であり演劇であるのは言うまでもないが、観客は物語のイメージに覆われたものとしてではなく、日常生活の延長でこれらの「商品」を捉えるほかない。このことは、チェルフィッチュ特有の俳優の身振りや、自他の曖昧なモノローグ的な台詞とあいまって、舞台と客席の境界線をどこまでも曖昧にしていく。つまり、劇場の内部にいる者は——当然のことではあるが——皆消費者なのである。

 それでは、『目的地』においてイスや自転車といった「商品」に混ざって用いられたダンボールという「廃品」はどう機能したのだろうか。結論から述べれば、このダンボールは均質性という幻想をうがち、言わば「現実界」の存在を絶えずちらつかせるものとして、あったのである。大量消費社会における均質性は、ある程度の消費能力を持つ者に限定されたものであり、「他者」を排除して初めて可能になる「想像上のもの」である。それでは、この「他者」とはここでは誰のことをさすのか。それは当然、ホームレスということになるだろう。ところが、そしてここが重要なのだが、『目的地』の物語内容には、ホームレスが登場しないのである。『三月の五日間』においては、イラクと渋谷の対比の中で、街中で大便をするホームレスについて「語られた」——そしてそれを見た主人公はあたかも現実界に直面したかのように、嘔吐した、と「語る」——が、『目的地』においては、ワールドカップと港北ニュータウンといった対比が描かれるにも関わらず、直接ホームレスについて言及されることはない。それにもかかわらずホームレスの存在が喚起されるのは、空間的越境性を持ち、オープンカフェで会話する主婦からクッキーをめぐんでもらう「猫」を演じる役者がひたすらダンボールの上で何もせずに座っているからである。『三月の五日間』におけるホームレスについての語り口は、単純にPC的な配慮であったようにも思われるが、『目的地』は舞台の構造によってそれを示し得た。つまり、消費者である観客が、絶えず消費の外部にさらされる、緊張状態に置かれることになったのである。

 『目的地』は演劇固有の論理を最大限に活用した、稀有な舞台であったといってよいだろう。



  (注)この論考はもともと大学院の授業の中間レポートとして書いたものです。レポートの課題は「2

  006年4月以降に上演されたものを題材にして劇評を書く」というものでしたが、時間的・金銭的

  な面で都合がつかず、昨年上演された中で強い印象を受けた『目的地』を選ぶに至りました。



批評誌クアトロガトス

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