05年8月


海上宏美(本誌編集委員)



1・連載最終回なので


 私がこの誌面で連載をはじめたときは演出家という肩書きだったのだが、2年ほど前に演出家を廃業した。演出という立場で演劇作品を作ることをやめたのである。しかし、現在、そうした舞台芸術関係の仕事に携わっていないわけではない。大学では舞台芸術関係の講義をしているし、NPO法人で舞台芸術関係の制作もしている。だから、矛盾はしているのだが、この矛盾が居心地の悪いものだとは思っていない。もちろん開き直っているつもりでもない。

 では、なぜ演出家を廃業したのか、さらに、にもかかわらずなぜ舞台芸術関係の仕事をやめていないのか、という疑問が当然出てくるだろう。今回でこの連載は最終回なので、それを説明してみたいと思う。私の立場や態度の表明というだけでなく、ひとつの思考のあり方として私自身も捉えたいと思っているからである。「自分の思考のあり方なんていうほどお前はそんなに偉いのか」という批判はあると思うが、それはすこし横におかせていただきたい。


2・他者の承認


 演劇に限らず、芸術やエンターテイメントを問わず、プロやアマを問わず、マスメディアやミニコミを問わず、作品や公演など公的に発表され発信される表現は社会(他者)に対する義務、責任を背景にしているのだと思う。これは一般論として言うことができる以上に、他者からの評価を求めない表現はありえないということでもある。そのように言うことができる根拠は、自分の存在意義を決めるのは自分=自己承認ではなく、他者からの承認だからである。私たちが最初に出会う他者=社会は親である。その親からの承認がない場合、私たちは生きにくくなってしまうとしたら、私たちが社会的に生きていくためには他者からの承認が不可避であるということになる。

 他者=社会に対して承認を求める私たちは、その他者=社会からの期待に応えるべく努力するだろう。そして期待に応えることがうまくいかなかったり、むしろ逆に期待に反抗したり、期待の地平を変革しようとしたりしながら、社会的な存在として存在し続けていくことになる。社会はとりあえずなくならないので、その社会なるものからの期待に応えたり、反抗したり、より善いものに変えようとすることを義務や責任と捉えることができるのではないだろうか。義務や責任をそのように捉えた場合、他者=社会の求めに応えていないとき、義務や責任を果たしていないので、自分がなにかしら良心の疚しさ感じることになるだろう。私たちはこのように他者=社会からの眼差しを内面に組み込み規範化しているのだと思う。 

 私たちがそうした規範を内面化し自らの行動の規範にしているのは、やはり私たちが言葉を操る存在であるからだと思う。私たちのような言葉を持たない犬猫にはやはり無理なことである。一方で、近年、社会規範がゆるんでいるという指摘もあるわけだが、犬猫のように人目のある路上で交尾=セックスを一般にはしないとすれば、規範がまったく無くなっているわけではないし、人間の屋外でのセックスはむしろ人目を意識している点で、犬猫とは決定的に区別されるだろう。そう考えれば、私たちが内面化している規範の根底には性的な欲望の制限(たとえば近親相姦の禁止)が存在することになる。

 話が脇にそれたようだが、そうではない。禁止や制限を司る他者=社会の眼差しがあるのだろうと思う。それは禁止や制限に関わるだけでなく、極めて抽象的なようでありながらも具体的に私たちに関わっている。たとえば、ブランド品(ヴィトンやベンツなどなど)を買い、身につける(乗る)ということがあるが、それはブランド品を身につけたいという欲望だけでなく、ブランド品を身につけた自分を承認してくれる他者=社会の眼差しを自分が意識する/しないに関わらず前提にしてはじめて成り立つのではないだろうか。


3・形式主義の欺瞞


 私たちが内面化している規範を形式と内容という面から捉えると、その内容とはいかなるものかということが問題となるが、その内容がもはや拡散しており希薄にしか存在しないとしたらどうだろうか。規範の形式だけが形骸化して残っているとしたらどうだろう。たとえば、イラクを攻撃する、イラクに自衛隊を派兵する、その場合、正義や大義という言葉は使われるのだが、その内容が人々を納得させるような形で定義できていないのではないのか。仮に定義できたとしても、形式に盛り込む内容が世代や左翼や右翼で違ってくる。つまり、規範の内容は拡散し希薄化し相対化され、その内容にリアリティを持たない人々には説得力がない。

 表現領域においても、たとえば演劇という形式に盛り込む内容もまた相対的であるほかはなくなっているのだろうと思う。私は演劇においては形式重視の形式主義者であったわけだが、私たちが生きる上で内容は不必要なのかと問えば「ノー」である。にもかかわらず演劇という形式においては形式主義者なのだから「イエス」となる。これはやはり矛盾なのだった。

 フロイトは人が生きるエネルギーの基本をリビドー、つまり性的エネルギーであると仮定し、それを社会的に承認できるものに変換する機能を昇華と呼んだ。そして芸術や地位や名誉などが性的エネルギーが社会的に昇華されたものだと考えた。これはもちろんフロイトの仮説であるのだが、その仮説をいったん認めてみると、芸術もまた私たちの社会的なあり方において、他者の承認をめぐる機能を果たしていると考えることができる。

 生きる上で、と、表現領域上で、形式主義に対する態度の違いがあるということは、形式主義というものの欺瞞あるいは限界を示していると思われる。人生を形式主義的に生きることができない以上—しかし、現代の実態としては内容のある生を送ることが難しいがゆえに形式主義的に生きざるをえず、この形式主義的生をリアルになぞってしまうとき、現代人は鬱になるのではないだろうか—演劇(芸術)という表現領域の内に留まり形式主義を持続・徹底するという態度は、真に倫理的な態度なのだろうか。表現領域内の形式主義に留まることによって、人生で直面すべき形式主義を回避しているのではないのか。もちろんそれは生きるための防衛機制として必要だともいえるし、昇華による場合の他者の承認も必要だといえるだろう。私たちが犬猫と異なる言語的存在であり、他者=社会の眼差しがあるからこそ、性的エネルギーの制限なき奔流はありえないのだから、他者から承認されたい=社会から認められたという欲望を捨てることはできないだろう。


4・私にしかできないこと…


 しかし、もう一度、ここで立ち止まって考えてみると、表現領域における芸術作品づくりは、作家の側からの意識で言うと、「私でなければならない」「自分にしかできない」ものを作るというのが建前となっているのだと思う。だが、私は表現領域で「私でなければならない」「自分にしかできない」という建前をやめたのだ。これが演出家を廃業したということの中身である。そして、いまは私でなくても出来ることを私もやっているという立場だと思っている。それが私が今も舞台芸術関係の仕事をしている理由といえば理由になる。

 この「私でなければならない」「自分にしかできない」を作家の意識ではなく、対象の側に移してもう少し別に言い換えてみると、「他の何よりも大きな意味を持つ」対象=芸術作品となるが、それもまた近代芸術では定義上不可能である。印刷技術以降、写真以降、複製技術時代以降、近代芸術一般において真の芸術の達成は不可能であり、不可能であるがゆえに(真の)芸術を求めて持続・継続されているのだから。

 しかし、「私でなければならない」「自分にしかできない」ことがなければ私たちは生きられないのだろうとも思う。私たちが自分の身体を通して「私でなければならない」「自分にしかできない」こととして求めているものはいったい何なのだろうか。私にとってはそれは結果的に昇華された芸術や演劇ではなかったということなのだ。これは事後的にしか捉えることは出来なかったことなのだが。


 以上が、私が演出家を廃業した理由であり、かつ、現在も舞台芸術関係の仕事をしている理由らしきものである。

 現実には「他の何よりも大きな意味をもつ」対象を芸術に求めようと愛や恋人に求めようと宗教に求めようと仕事に求めようと構造自体は変わらないのだと思う。だから、私は他の人に芸術をやめなさいということはもうないと思う。ただ、私が芸術に対して「関心を集中する」ことがなくなっただけであるのだろうと思う。芸術に対する関心がなくなった理由はこの誌面の連載で書いてきたつもりである。


『C&D138号』より転載



批評誌クアトロガトス

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