2005年7月


上演の具体性、「寓話」を拒否することの必要性


中西B(本誌編集委員)



 私は今回、新宿パークタワーホールで見た、「アル・ハムレットサミット」と「ビオハラフィア」の感想を短くまとめ、それと秋に行われた野田秀樹による「赤鬼」ロンドン上演バージョンを比較することで、上演の具体性ということを考えてみたいと思います。

 最初の二つの上演は東京国際芸術祭2004の招待作品として、2月12日〜17日に新宿のパークタワーホールで上演されました。「アル・ハムレットサミット」はクウェート人の演出家スレイマーン・アル・バッサームが英国において英語で上演し後にカイロで上演した作品を、アラビア語の新しいテキストと中東の俳優陣によって作り直した「世界最初の」上演となります。この舞台はメッセージ性を強く打ち出し、中東を取り巻く政治的社会的素材を主要なモチーフにしたものとなっています。この上演は、現代のアラブに「ハムレット」の舞台が移されて(とはいえ、翻案であり、セリフなどは全く違ったものです)、「中東世界」の矛盾の中で自己とその周りの破壊に進んで行くハムレットを描いています。現在の中東の舞台であることで、きちんと「ハムレット」を上演すること自体の西欧性、つまりは西欧演劇との距離があらわれています。「ハムレット」の構造の組み換え、西洋的なものとアラブ的なものの舞台美術や衣装と音楽でのコントラスト、さらにはテキストの文体レベルでの異質さとそれが構成のレベルと連結すること(具体的にはハムレットの台詞におけるシェイクスピア的なアラビア語の詩的テキストと、それに対するクローディアスの世俗的で卑俗な台詞が、ハムレットのロマン主義性に対する批判になっていること)に、表されており、モチーフのレベルでアラブの陥った状況を描くストーリーを別のレベルで補完しています。

 ですから、アラブの抱えるさまざまな苦悩がきちんと出されています、ただ、近代に既に深く入ってしまった女性であるオフィーリアがハムレットとガートルード(近代化と中東の固有のもの)に二重に排除される状況は描けても、肝心のガートルードが描ききれない、まさにこれが中東の「固有のもの」のポジティブな現われをついに示せないという最大の欠陥になるのですが。もう一つこれは原作の「ハムレット」自体の女性排除という問題の引継ぎにもなります。そのため舞台がどうしても単性的なものになっています。

 ともあれ、構造上の最大の変化は、父の亡霊がハムレットの前に登場せず、ただクローディアスが幻視するだけであり、フォーティンブラスが初めから登場人物を制約する脅威として前提されており、しかも最後の登場人物のとして現れたときに、悲劇を後から認識して秩序を回復する「ハムレット」にたいして、「事件」から一切学ばず、亡霊の代わりに登場して自体を進行させてきた武器商人(オリジナルの登場人物)についていってしまうことで悲惨な事態が再現することが予告されることになります。これは、悲劇を完成させるための「真実」である「父の亡霊」が出現しないことは回復される秩序が実は存在せず、ただ各人の欲望をゆがめつつ拡大する武器商人(マクベスの魔女たちです)が最後まで登場し、一切を手に入れたはずのフォーティンブラスの前にまで登場することは舞台で演じられた「ドラマ」が未完であるという認識を観客に与えます。その意味でこの劇は(ロマン主義的)悲劇の域を超えています。フォーティンブラスが西欧=米国=イスラエルを表すのは明白です(ゴルフウェアのようなださださの衣装であらわれた彼には笑った)が、この政治的メッセージも以上の舞台の構造なしにはありえないでしょう。しかし、亡霊の不在によるハムレットの道化は、何が起こっているのか、そして後に何が続くのかを最初にクローディアスが認識することになり、彼のダラー(アラー・ドル)の神への懺悔のシーンが、彼の台詞の異様さ(ひどく世俗的即物的でしかし詩的な文体)とあいまって特別な衝撃を私に与えました、これはその後の舞台をまるで死者達の舞台のように見せました。ハムレットが最後に自らの行為の無意味を知って死ぬ場面は、クローディアスの懺悔の反復になります。実は、クローディアスが懺悔するシーンの圧倒的な強さはかえって彼への感情移入を誘い中東と西欧の距離の認識はさせても、彼と、女性達あるいは我々の間にある距離を消し舞台の他の部分を支配してしまうという問題を引き起こします。これは、女性をついにきちんと舞台に出せなかったことの帰結でもあります。

 最後に、字幕による通訳は、演技の把握をどうしても疎外し、何より、舞台で響くアラビア語を聞くことを妨げたこと(というより私がそうできなかった)は残念です。しかし、舞台で時に響く人名(ハムレット、オフィーリア、クローディアスなどなど)は私達が西欧を通してしか中東にふれられない事を示すように響いていました。これは、意図されなかったひとつの効果として重要だと思います。

 「ビオハラフィア」は、レバノンの、ラビア・ムルエとレナ・サーナーによる作品で、2月9日から12日に上演されました。2本の映像と一つのパフォーマンスがセットになっています。映像「魂と血を持って」はデモの映像であり、それはは明らかにイスラエルに殺された人の追悼デモです。まずデモにたいする作者の共感がその映像に作者自らを探そうとする映像操作とナレーションであらわされます、しかし死者との隔絶性と死への恐怖が介入し、いつの間にか悼まれる死者に一体化するように近づいていくデモの運動が、いったい誰がどんな体験して語っているのか不明瞭な証言と夢の語りで表されていきます。作者は常にデモに対して微妙に離れた位置取りを保っていてそれが映像の視点になっています。レバノンで作品を作る作者と、それを観る観客は映像を通しては決して一致できない(してはならない)のが前提ですから、これによって作者の位置と戸惑いを間接的に読み取ることを可能にします。

 パフォーマンス「ビオハラフィア」においては、題名に含まれる「ハラフィア」(糞、記憶、老化)が上演行為そのものと重ねあわされているのは明らかです。上演は女性演出家が一人でテープの質問に答えるという設定で、レバノンで演劇をすること(糞を出す)の矛盾、がテープの質問とのやり取りの滑稽さに現れています、テープは政治的なことから私生活まで容赦なく人物を問い詰めますが、テープと俳優の対立が実は両者の融合、というより両者が補完関係であることが次第に明らかになっていきます。検閲や伝統が個人的な記憶と共に表現行為の深い前提になるというアイロニーが現れてきます。上演の中で全体を貫くオブッセッションとして(明示的には語られずとも)初潮の時の記憶がすえられており、レバノン社会の女性というモチーフと演劇の条件としての公共性と私秘性の重なり(映像にも同じ主題があります、普通は「身体」がそのよりどころにされるのですがここではちがいます)のモチーフを束ねています。この上演は笑えて、しかし恐ろしいものです。例えば同じテープを使っていても、ベケットには決して現れることのない性的欲望が上演に張り付いているのがその最大の理由でしょう。女性の前にある水槽は途中から白濁して彼女自身の映像が投影されていきます、最後にそこから流れ出たお酒を舞台の出口の前で9800円の値をつけて売るパフォーマンスを行います。表現の条件と欲望を問うこの舞台で単純な対立、自由とそれを束縛するものなどという単純な構図はありえません。さらに、その後のシンポジウムで、映像を作った男性は、自分たちが、レバノンでレバノンに住む人々に向けて作品を作っているといって、日本での上演を、「私はヒロシマを見た」「いや、君はヒロシマを見ていない」という有名な台詞を例に語っていました、この言葉は上演の基本的な位置をきちんと表しています。もっとも、その映画の日本での題名は「二十四時間の情事」ですが。

 ともあれ、日本でそこに住む人が観客だということ、それもかなり問題のある観客だということ。二つの上演について語る時上演そのものが要請する前提としてこのことははずせないでしょう。両作品は、やはり、その通じなさによって、上演の意味が存在するでしょう。

 それとは対照的な例を挙げます、9月に野田秀樹の「赤鬼」のロンドンバージョン(英語)というのを観にいきました、この上演はなんとも中途半端な作品だったといえるでしょう。そもそもこの上演は95年に書かれ日本で上演された戯曲「赤鬼」を、ロンドンにおいて英語で英国のキャストで上演されたものを日本で再上演したものです。「赤鬼」は海の向こうから流れ着いた、赤鬼と彼にかかわってしまった人々が、共同体から排除される様子を描いた話ですが。ウェルメイドなメロドラマではあるのですが、停滞していると感じました。みていて最大の問題は、いずれにしても必要になる条件の、上演では戯曲を具体的な状況に配置しないといけないという認識が決定的に足りないことだと思いました。同じ戯曲をイギリス・タイ・日本で上演することは重大な問題です。特にこの戯曲が寓意的なだけに、具体的状況に「受肉」(あえて神学用語を使いますが)、させなければ効果を持たないと思います。

 先に見たように上演は具体的な出来事でなければならないと考えると、中東からの上演が具体性を持ち、野田秀樹の上演は持っていないのはなぜでしょう。それは明らかに、「赤鬼」においては寓話という形式の問題です、しかし、中東の上演が具体性を持つのはそれ以上の問題があります。観客に対する態度こそがその問題であるのではないでしょうか、上演が具体的な観客に対して行われること、それが「アル・ハムレットサミット」のように、「ハムレット」や「中東」といった、遠くの人達にも自明のこととして取り扱われているはずのことを変換することによる遠くの人を揺さぶることであれ、「ビオハラフィア」のように、自らの近くにあるものへの問いかけであれ、上演の具体的な対象を想定することが、上演の具体性を可能にするのではないかと思います、そのとき想定外の観客に対しても具体的であると言えるのではないでしょうか。


 2005年1月執筆、7月31日改訂


 (注)この文章は「西洋戯曲史におけるベケットの意義について」とほとんど同一の経緯で同時期に中西B

 によって書かれました。こちらは誤植の訂正や内容に関していくつかの変更が施されています。(中西B)


批評誌クアトロガトス

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