2005年7月


早稲田大学第一文学部西洋演劇史レポート 文芸科四年 森下貴史

「西洋戯曲史におけるベケットの意義について」


中西B(本誌編集委員)



 ここではブレヒトとの対比という補助線を引いた上で演劇におけるベケットにの戯曲について考えてみます。まず、ベケットにおいては演劇は彼の「本業」ではないことが前提となります。デビュー作の短編小説「被昇天」(29年)以来、「ゴドーを待ちながら」(52年)まで公表された劇作品はありません、しかも、これ以前に小説における彼の代表作である「モロイ」三部作が発表されています。「モロイ」はその後の、ヌーヴォーロマンの先駆となり、それ以後も英語圏でも、フェダマン、クッツェー、オースターなど、ベケットの影響を受けた(?)作家=小説家が続いています(ただし、前の二人はそれぞれ、ホロコーストとアパルトヘイトという現実抜きに作品を語ることができない)。

 しかし、「ゴドーを待ちながら」の影響力は圧倒的であり、ベケットの作品として他のを名前を知っている人はほんのわずかでしょう。ベケットは一般的には明白に劇作家です。しかし、彼は本当に戯曲を書いたのでしょうか? この問いに答えるには戯曲の本質をどう想定するかによって決まります、とりあえずここでは上演されるために書かれたテクストという意味で用いましょう。

 この一見不可解な問いは、もちろん「不条理の演劇」という彼の作品に対する命名からわかるとおり、内容的なものでもあります。しかし、同時に演劇とは何かという、素朴な(ということはモダニズムの)問いでもあります。まず、ベケットの戯曲が表現形式として即物的に戯曲であること、登場人物がいて、舞台設定があり、セリフとト書きがあることは確認しなければなりません。次の問題が、ベケットが上演をテクストに対して徹底して従属的立場においたことがあります。ある学者がベケットはト書きまでリズミカル(詩的)だと語っていましたが、私も実際これほど読める戯曲は珍しいと思います。ベケットは戯曲を書いたかという問いはこの二つの前提の下で問われなければなりません。

 さて、典型的な後期戯曲の一つ「わたしじゃない」は、構造的にきわめてわかりやすく彼の戯曲のを示しています。延々とある女性についての告白し、「彼女よ!」という語られる対象と自己の同一性を否定する口と、時折それを動作で問う「聞き手」の二人(?)だけが登場するこの劇は、(後期)ベケット戯曲の特徴をよく現しています。語るものと語られることの関係の癒着と、それを引き剥がす聞き手という構造は、その他の後期戯曲にも実は執拗に現れています。「あのとき」の三つの時間に分かれた語り、「ロッカバイ」における、「女」と「声」の関係、そしていずれにも現れるライトや舞台装置などの「第三者」(他者?)などなどは、自己言及的構造とそれを支える「もの」(超自我?)というパターンを執拗に繰り返しています。

 さてここで、ブレヒトについて語ると、ブレヒトが「ゴドーを待ちながら」の翻案を検討していたことは有名です。ハイナー・ミュラーはやや皮肉を込めて、「ゴドー」におけるラッキーとポッツィオの場面こそブレヒトが書いたすべてだった語っています。演劇のその後の歴史においてブレヒトとベケットは対極の存在として扱われ、本人にとっては(あるいは政治的には)いざ知らず、演劇潮流的には対立するものになってきました。

 この関係を全面的に検討するのは不可能ですが、ここではブレヒトが構想していた「パノプティコン」演劇というものを考察してみようと思います。パノプティコンとは周知のとおり、功利主義の哲学者ベンサムが新しい「人道的かつ効率的な」刑務所のシステムとして発案したものです。円形の建物の周辺部に囚人の独房が作られ、建物の中心に監視塔があり、明かりの調節により囚人からは監視人が見えないようになっています。「監獄の誕生」でフーコーがこの装置を近代社会のモデルとして取り上げたためきわめて有名になりました。ブレヒトは、フーコーが著作を書く以前になくなっているのでそのことは知りません、むしろ、彼は観客を監視人の立場におき、各々の囚人の独房を舞台の各シーンに対応させています、つまり自らの外を認識できない登場人物たちとそのすべてを見ることにより社会の場面の多様さとその断絶の認識を得る。そのことで、観客中心的(つまりマイケル・フリードの「批判的な」言葉で言えば「劇場的」)な演劇の構想を考えたようです。確かにこれはブレヒト本人やほかの人々による叙事的演劇の構造と対応しています。

 私がここで、パノプティコン演劇を持ち出したのはベケットにおける戯曲の構造が、そこでの囚人の位置に対応していることが想定できるからです。ベケットの登場人物は囚人のごとく盲目です、彼はただ過ぎていく時間と彼の記憶以外のものを持っていません、またいかなるコミュニケーションも存在しません。登場するのはただ(女と声など)分身だけです。先ほど私は介入する聞き手や舞台装置の効果などを、「超自我」と書きました。正確な用法でないのは承知の上ですが、フーコーにおける内面化された監視人をこの「超自我」に対応させることができると思います。そのように考えるとき、フーコーの出口のない悲劇的な近代社会像とベケットの戯曲の世界との間には基本的な相同性があるといえるのではないでしょうか。

 ここで、問題になってくるのがベケット=フーコーにおける認識するものの位置と正当性です、フーコーにおいては既に「狂気の歴史」や「言葉と物」などの歴史研究から既にこの問題に突き当たっていました、これは70年代後半以降、現実の権力への抵抗可能性をめぐってフーコーの思想の転換をもたらします。では、ベケットにおいてはどうでしょう? 先ほども書いたとおり、ベケットのテクストは読める=言語作品として面白い=感動できるものです。この等号は当然ベケットのテクストにおいて成立するものです、常に成立するものではありません。では、等号の最後の二つを成立させるものはなんでしょう? それは、作品の意味(主題)と言語表現の一致です。記憶がここで鍵になります、ベケットの作品のテーマが過去の記憶にひたすら縛られていることは(特に後期に顕著になる)、単に個人的趣味以上に、自らと切り離されたところに自らの本質(意味を)をみざるを得ないという「運命」を体現するものとして記憶が存在すると考えられているからでしょう。そして、「感動」を読むものが感じてしまうのもテーマと構造と言葉が重なるテクストの本質からです。ベケットの作品はある意味で詩作品といえるます。

 さて、最後に最初の問いがでてきます、ではこのような作品は上演されえるのかということです、前の段落におけるベケットの作品の享受の解説は、読者と表現者と作品の本質的一致を前提としていました。ベケットの認識の権利は結局この一致以外の根拠を持ちません。上演はこの一致を維持しえるでしょうか?先のパノプティコン演劇ではベケットの語りは囚人の位置にあります、そして本質的にそれと同一化した観客だけが要請されます。これに対して、ブレヒトは監視人の位置に観客をおきます。ここで重要なのは監視人は「架空の」「内面化された」存在だということです、超越論的な視点の顕在化は上演によって観客にもたらされなければなりません、ベケットにおいては「絶対的に距離を持っていた」その超越論的なものは、ブレヒトにおいては現実の上演によってその視点において経験されます、そしてそうやって得た超越論的視点が「現実」の複数性をもたらす、あるいは「現実」の複数性が超越論的視点の通常は意識されていない機能と人工性(権力性)を示します。とりあえず、上演が必要とされる理由がブレヒトにはあります。その理由はベケットには決してないものです。

 ブレヒトの上演についての考察は行いませんが、ベケットは繰り返し演劇への無関心を表明しています、その彼がついに関心を持たなかったものから演劇史を見返すことができるでしょう、彼が戯曲を書かなかったとすれば彼以前の戯曲は戯曲だったのでしょうか? やはりベケットの出現は演劇史上の決定的事件だと思われます。


 参考文献 

 まず第一にこのレポートは、2004年11月8日に、岡室美恵子、長島確、谷川道子の3氏をパネリスト(司会は、平田栄一郎氏)に開かれたシンポジウム、「ブレヒト=/≠ベケット」をみた時の感想を元にかかれました。いくつかの事実についてはそのメモによります。



(2005年1月10日執筆)

(注)

 このレポートはある方の依頼により、中西Bによって2005年1月に書かれた文章のそのままです。そもそもは、シアターΧで2004年11月8日に、岡室美恵子、長島確、谷川道子の3氏をパネリスト(司会は、平田栄一郎氏)に開かれたシンポジウム、「ブレヒト=/≠ベケット」をみた時の感想を元にしています。各パネリストがそれぞれ映像を持ち寄り上映し、各々の専門について興味深い議論や逸話をしてくださいました。「私じゃない」の映像は岡室さんが上映されました。ドイツ語での上演をついにベケットが納得行く形で行えなかったこと、戯曲テクストの詩的な性質などについてもそのお話しから来ています。パノプティコン演劇については谷川氏がお話になりました、パノプティコンを後年に扱ったフーコーと、パノプティコン演劇の関係についての問題はこのシンポジウムで提起されました。


 これは全くの蛇足ですが、谷川氏の紹介された、東ドイツ(DDR)出身の演出家故アイナー・シュレーフが自ら旦那ブンティラを演じるブレヒト原作の「旦那ブンティラと下僕マッティ」の映像はすばらしいものでした。クラシックコンサートのような舞台で男性のコロスがブンティラ以外の全員を、女性のコロスがブンティラの娘を演じるものです、これもブレヒト的テーマの系譜にあります、ぜひ映像の公開を望んでいます。


(中西B・2005年7月31日記)


批評誌クアトロガトス

Top  □News  ■Text Archives  □Blog  □Contact Us