2004年6月
「市民的上演」
〈東京演劇〉万事快調 vol.2
森下貴史(本誌編集委員)
「参加型福祉社会」においては、「プライベート」な領域は「コミュニティ」への積極的参加として「パブリック」な領域に統合され、かつ、その「パブリック」な領域は国家に「プライベート化」されているのだから、「コミュニティ」へ積極的に参加する主体(「市民」)は「自己実現」を果たしつつ統治されるネオリベラルの主体となる。そこでは、コミュニタリズムはネオリベラリズムに対立するのではなく、それを補完するのである。そして、「コミュニティ」に積極的でないものは「市民」とはみなされず、排除の対象となる。
社会政策の役割は、もはや雇用を直接保証するというよりも、産業構造の変化に適応するために、個人
にスキルを積極的に身につけさせることへと変貌する。しかも、スキルを身につけようと努力しない者
は、リスク管理が不得意な「怠け者」を超えて、「モラルを欠いた者」とさえみなされるのだ──〈コ
ミュニティ〉の名において。失業者への援助の手が差し出されるのは「毎日ベッドで寝ていないこと」、
そして「スタッフを騙さないこと」に同意した場合である。
〈コミュニティ〉へのアピールは、そのメンバーシップの条件として他人に道徳的義務を課す。その結
果、失業はその社会問題的な側面が剥ぎ取られ、個人のモラルの問題に還元される。この意味で〈コミュ
ニティ〉は、あのリスク管理の主体──より賢明な「選択」をし、「責任」を引き受けるる主体──を
いっそうプロモートする力となるのである。(中略)福祉国家から「アクティヴ・ソサエティ(活力ある
社会)」への転換として構想されたこの政策ヴィジョンは、「受動的」な態度を変更させ、「自律的」で
「アクティヴ」な市民の創出を狙っている。この意味でそれはわれわれの自己自身の存在条件、すなわち
シティズンシップ概念に関わる。
(渋谷望『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』)
とりわけ9.11以降の「帝国」の前景化によってというべきか、ネオリベラリズムの巧妙な統治テクノロジーの問題が日本の演劇批評界にも徐々に意識されはじめている。といっても、鈍い書き手が跋扈する〈東京演劇〉批評界において数人が意識しているという方が正確ではあろうが、たとえば『舞台芸術』で連載中の内野儀の演劇時評は、個人的にはそのネオリベへの演劇的「抵抗」のありようについての捉えにいささか疑問があるとはいえ、演劇批評誌における過去十年聞の時評のなかでも最も貴重なものであろう。
内野の時評(を演劇批評家が読んで勉強すること)がわれわれにとって貴重なのは、それが演劇を志す若者ならば一度ならず愚痴られたことがあろう「大きな物語の喪失」というオヤジ語を、早々と(やっとこさ)失効させることは確実だからである。リベラルによる社会的検閲をかいくぐるために人種のシニフィアンを「犯罪者」の位置に横滑りさせ、たとえば「黒人VS白人」という直接対決のコノテーションを不可視にしながら統治するパウエリズム=新人種主義(石原都政)が象徴するがごとく、「政治の終焉」という標語はたんにそれに抵抗するあらゆる政治を見えなくする「市民社会」的スローガンにすぎない。であれば、いまだ若者に「大きな物語の喪失」とノスタルジックに愚痴たれるオヤジ批評家たちの存在こそ、最悪のポストモダニズムと呼ぺるのである。
また同時にそれは、「身体は普遍」といった疎外論的ダンス観、身体観の失調の露呈を意味する。60年代的といいうる反近代主義的演劇観は、近代化あるいは国家管理のシステムの隙間として「演劇の場」(=「コミュニティ」)を定立し、そこに近代の疎外を超える可能性を見出す。しかし、渋谷望が群述するように、「コミュニティ」は〈68年〉以降、ニューライトの新たな統治形態として再─「発明」されるのである。
ジョン・クラークが批判的見地から整理しているように、「コミュニタリアニズムは、(「国家主義
的」)オールドレフトと(「市場主義的」)ニューライトの失敗によって作り出された問題への解答とし
て自らを差し出し、国家と市場とのあいだの『第三の道』の可能性を約束する。」
もちろん「コミュニティ」とは多義的な表象であり、その概念は多岐にわたる。しかし、ニューライト
を経由した現在の政治的文脈に接合された「コミュニティの再発見」は、ネオリベラリズムによって促さ
れた公共領域の「貧困化」を、かつての国家主義的、階級政治的な方法とは別の仕方で埋め合わせる役割
として理解すべきであろう。
(同前)
個的、特殊な個々の身体を突き詰めればやがて普遍的存在に至り、失われていた「自然」たる身体が回復され共同的アイデンティティを獲得するといった、個と全体のイマジナリー(鏡像的=想像的)な関係性を前提とした「身体は普遍」というダンス観、身体観は、今なお日本のダンス批評界にびまんしている。また、フリーペーパーや演劇雑誌あるいはチラシ、パンフレットなどを読むと、観客や演じ手の期待、意図も同様にそこに存在するように見える。しかし、劇場はここで機能的に「コミュニティ」あるいは「パブリック」な領域と等価であり、個と全体が照応するそのイマジナリーな閉域こそ、「市民」的同一性の強化-不可視化へとフォルマリスティックに連結されるといってよい。渋谷の言葉を用いて言い換えれば、観客は、「身体は普遍」というイメージを劇場内「市民」に課された「モラル」として共有=感動し、「自己実現」しつつ統治されるのである。
ここで、演出家とパフォーマーと観客とがかかる「身体」を介してイマジナリーに結ばれるような演出法で満たされた上演を「市民」的同一性の舞台と呼べば、80年代後半における「絶対演劇」系の演劇人たち(海上宏美、清水唯史、豊島重之)の登場もその危機と相即的に捉えるべきであろう。しかしまた同時にそれは「否認」として生きられる他ない。ダンスやパフォーマンスはジャンルの条件として基本的に生の身体を使用しなければならず、モダニズム的な──不純物としての物語性や装飾性を自己否定して形式的自己純化に至る──志向をもってしても、生々しい身体の象徴性は「自然」として拭いがたく保存されるからだ。
つまりはメディア的特性として劇場は失われた「自然」たる「身体」の共同的回復というシンボリックなイメージの共有空間へと常に流れやすく、彼ら(海上、清水)一流の逆説を用いれば、「演劇は身体を扱えない」からである。
初回を「『帝国』と演劇──ネオリベラリズムに抗して」というタイトルで書きはじめる内野の時評が、かなり明確な疎外論的身体観の拒否によってよりアクチュアルなものたりえているのは周知のことだが、しかし同時に、かかる身体=「自然」の回帰という問いをカッコに括るところにその批評的量産が担保されているように見えることも、書いておくのがフェアーだろう。
望蜀めいた異見をここで述べれば、とりわけ『舞台芸術』5号の時評(「『市民的教養・シビリティを裏切るために──「芸術的過酷さ」をめぐって』」)の結末部においてARICAのパフォーマンス作品『パラシュート・ウーマン』を性急に称賛する手つきに、それは端的に表れていよう[注1]。
内野はそこで、「圧倒的な孤独と受動性のただなかに置かれた」パフォーマーの「アウラを放つというより」「ただひたすら暴力的になって汗にまみれていくだけ」の身体による上演といったレトリカルな作品描写をしながら、「そこにはアングラ的な意味でのパトスの表出はまったく見られず、パトスによって主体性を獲得するなどというノスタルジアのかけらもない」として、『パラシュート・ウーマン』を「市民」的上演の対蹠点として評価している。しかしたとえば今日の舞踏を4,5本観に行けば、同じ動きを過酷に反復して「圧倒的な孤独と受動性のただなかに置かれ」ながらパトスによって主体を獲得しまくっている舞踏家にいくらでも出会うことができよう。なぜARICAのパフォーマンスはそれをまぬがれたのか、内野はそれを主題的に論じないのである。
ARICA『ミシン』(『パラシュート・ウーマン』の再演、構成・演出は初演とほぼ同じ)の上演コンセプトを、演出家・藤田康城は当日劇場で配布したプリントに書いている。
今回の「ミシン The Machine」は、従業員一人という極小のパラシュート生産工場で働く「女工」の労働
行為をユニークな身体動作の反復で表現しています。繰り返される労働行為のなかで、奇妙に真剣な「働
く」その人の単純作業はいつしか熟を帯び、一種身体の機能美ともいえる「美しさ」を実現します。と同
時に、機能や効率に支配される人の「悲しみ」も見て取れます。
労働に統制された人の「美しさ」と「悲しさ」が巡るうちに、ふと不思議な感情が沸き起こり、その時
「パラシュートを作る」という目的を越えて、ただ身体の深くで震えているような、何ものにも還元でき
ない一瞬の輝きが出現する。労動という意図にあたかも抗うように顔を出したこの事態は、社会のなにも
のも侵しえない〈人間の意志=生きている微〉のしたたかな現れ、<生命>そのものではないでしょう
か。
「『自己実現』しつつ統治されるネオリベラルの主体」の丁寧な解説書のごとき以上のコンセプトを読めば、今日のダンス、パフォーマンスにおける身体=〈生命〉というプロプレマティックとネオリベとの「市民」的親和性を見て取ることができる。であれば、内野はそのようなコンセプトの「市民」的同一性──演出家からパフォーマーを経て観客へと滑らかに伝播されることが望まれる共同体普遍の「モラル」として「身体」の共有──を機能不全にするような、上演内容とパフォーマーによる上演行為とのズレがどこに存在していたのか、やはり書くべきなのである。
しかしそれについては主題的に論じずに、「テクストの言葉と発語する安藤(舞台にただ一人で出ているパフォーマー──引用者注)の身体の間には、なんとなくの齟齬感覚が常に横たわり、そのため彼女にはいわゆる登場人物のアイデンティティが与えられることが最後までない」と、ARICAを評した箇所の中盤部に触れるのみで性急に称賛記述してしまうのは、今日のダンス批評がイマジナリーな「身体」への感動を介して情緒的作品描写に終始しているのを考えると、やはり弱いのである。
「市民」的同一性の舞台は、今月の早稲田サークル演劇の中にもひしめいていたといってよい。たとえば、第七劇場による公演『贋作ハムレット』は、シェークスピアの『ハムレット』、『リア王』、『マクベス』、『オセロ』の他に芥川や西行のテクストをコラージュして構成されているのだが、結局のところ心理主義的な「父親との葛藤の話」にしかなってない。
劇場で配布された小冊子で演出家の鳴海康平は、
「家族という単位において子どもは、両親からは現実的なもしくは経済的な生きる力を学び、おじいちゃんやおばあちゃんからは、直接的に生きる上では必要ないように見える何か、つまり文化を学ぶ」、
「ということは、核家族においては、現実的な生きる力はあっても、文化の継承や伝達がないということになる。」
「この状態が時間的推移を経ていけば、その中で育っていく子どもたちは現実的な力に長けても未分化な感覚を基にする文化は未発達のまま社会と付き合うことになってしまう」
「見えざる生きる力の基盤が欠けることによって、現実的な壁に直面したとき、持てる力が現実的な力のみだとそこで力が及ばなければ頓挫してしまう。」
と述べながら、現代社会の諸問題を「最小単位としての家族がまず崩れてしまっている」ことに起凶させて、「見えざる基盤の欠損が、内因性の悲劇であるハムレットとつながる」とするのだが、このまさに文字通りの「市民」的な言辞が、舞台でそのまま──演出家=役者=舞台=観客という「市民」的同一性を保って──滑らかに再現されているといってよく、時に脈絡を欠いて挿入される断片的な引用台詞群は、その「市民」的同一性を揺るがすノイズとして機能するのではなくむしろ対蹠的に、「父親との葛藤」というメロドラマを詩的、装飾的に(思わせぶりに)盛り上げることだけに淀みなく機能している。薄暗い照明と和服姿の役者たちが醸す美的イメージと調和的に作品は、それを見る観客に対して自分が劇場内「市民」であることを確認させ安心させる。そして、その確認すべき「安心感」の生産こそが、「〈東京演劇〉界における(無)意義と量産の不均衡」の本質的機能なのである。
そう書いて、二回目にして初回の問題提起にいきなり答えを出してしまった堪え性のなさに赤面しつつしかし次号にむけて、「〈東京演劇〉万事快調」の作者はとりあえずのものにすぎない今回の「答え」など一切「失念」させながら今一度つぶやくのだった、──それにしても、なぜこれほど詰まらぬものだらけなのか。
[注1]ここでは言説レベルに限っての批判である。つまり、ARICAの上演自体がどうであったかはカッコに括っている。何よりわたしは『パラシュート・ウーマン』の再演しか見ておらず、初演と再演とでは構成・演出はほぼ同じながら(パフォーマーも同じ)上演会場が異なり、それが起因する印象の差異は拭いがたいようだからだ。会場の問題については内野氏御本人より真摯な長文回答をいただいた。あらためて謝意を表明したい。
『Review−Lution! 2号』(2004年6月)より転載