04年4月


これっぽっちも興味がないゆえに演劇を観るわれわれは

〈東京演劇〉万事快調 vol.1

──それにしても、なぜここまで詰まらぬものだらけなのか


森下貴史(本誌編集委員)



 まるでちょっとした時候の挨拶のような気軽さで、いまでは誰もが口にする台詞を繰り返すというのはいかにも芸のない話だし、一度や二度で退散するわけにもゆかぬ場所の起句に、そんなあか埒もない繰りごとを記すのは決して本意ではない。だが、それを引き受けたことの最低限の義務として、早稲田大学構内・近辺で上演されたいわゆる「サークル演劇」を多少とも真剣に観てしまった者は、いまさらながら、それにしてもと嗟嘆するのだった。

 ──それにしても、なぜここまで詰まらぬものだらけなのか。

 〈それにしても〉、誰しも高校時代の記憶の片隅で、演劇部の存在がどれほど冷ややかな視線の対象となっていたか知っているはずなのに、ひとたび大学生となってしまえば、「演劇部に入っているなんてなんか恥ずかしいよね」といった陰口をいっせいに皆ぴたりと止めてしまうのはいかにも不自然ではないか。その不自然さを享受しながら、──人々の不気味な善意に支えられながら──かくも多量に演劇が量産されてしまう。おそらく、その数は世界の大学で群を抜いているはずだし、「サークル演劇」と限りなく表情を同一にする東京の小劇場劇団の総数も加えれば、「現代演劇」を観に行くという文化習慣のないはずの国で、しかしこれほどまでに年間劇場集客数を誇る都市もまたないのである。加えて、劇場に足を運んだ結果、何か未知の事件・体験に臨めるといったことを誰も期待せず、また実際にそうならないと言っても過言ではない。たとえば、この劇評も、あえて嘘を言えば、実際の舞台を観る前に書かれたのである。つまりは、観る前に構想されていた劇評が実際の舞台に接してあっさりと放棄されるといった爽快かつ当然の体験が、「サークル演劇」=東京の小劇場にあっては、ほぼ<ない>といってよい。(しかし、この<なさ>を語ることもまた難しい。われわれは、ここ10年間批評家がそれに失敗し続ける光景をいくつも(?)知っていよう。たとえば、『シアターアーツ』紙上で94年12月から95年10月まで3回に渡って書かれた八角聡仁の演劇時評が、批評として良質の部類に属するものでありながら、ひとたび「熱い言葉」=実存的な「演劇とは…のはずだ/であらねばならない」といった語が漏れれば、即いかなる批判語であっても「サークル演劇」=小劇場にあられもなく回収されていったのを想起せよ。)

 この(無)意義と量産の不均衡を、文芸時評に関しては、スガ秀夷が、プリント・キャピタリズムにおける俗語革命とナショナリズムが同時に生まれたというベネディクト・アンダーソンに依拠して、新聞全紙に載っている文芸時評は「国民統合の象徴」であることを指摘している──どうでも良い存在であるが故にむしろ国民的な意義を持つ「天皇制」のようなものとしての文芸時評、あるいは「文学」という国民的な「富」をめぐる宝さがしとしての──が、日本の近代化運動に結局立ち会えず国民的な「富」と誰も認識していない日本の演劇が、なぜかくも盛大な(無)意義と量産の不均衡を演じてしまうのか。

 これから書かれていくだろう早稲田サークル演劇批評の筆者の意図が、この点に多少なりとも触れようとする欲求のみに終始していることはあらかじめ断っておくが、しかしいかなる方法によってそれが可能なのか見当もつかない。にしても、そのために、「善意の観客」にはならないという最低限のルールだけは守ることは断言しよう。たとえば、國吉和子でも立木ヨウ子でもいいのだが、たまたま今机の上にあったというだけの理由で「CUT・lN」最新号(24号)の武藤大祐のダンス批評(「天才少女の輪郭を溶かすスパーリングの偶然性」)を引き合いに出せば、そこに書き連ねてあるのが「善意の観客」の感興語以上の何ものでもないのをみればよい。


 観客としてはやはり自分の身体とダンサーの身体を重ね合わせながら見ているもので、基本的には常にどちらか一方の立場に身を置いている。それがこういうやり取りを眺めていると、受動と能動、攻めと守りの関係が交錯して、いったい自分がどちらの側に立っているのか判然としなくなる。次第に「黒沢美香」「手塚夏子」なるものの輪郭が溶け出して、ついには両者の融通無碍な交流と関係のフォルムだけになってしまうかのように感じられる。


 黒沢美香と手塚夏子の即興舞台(「ある天才少女スミレ」2003年11月25−26日)を評した以上の言葉に対して、これっぽっちも演劇に興味がないゆえに演劇を観るわれわれは(・・・)、そう簡単に人の輪郭は溶け出したりしないし、観客としてのあなたの身体も黒沢美香と手塚夏子とともに溶け出したりはしていないはずだ、と科学者のようなあっけなさであっさりと否定しよう。二つの身体が舞台で踊ればそこで互いの輪郭が溶け出しやがては別のなにものかに変容してしまうはずだという〈ダンス信仰〉=イメージに、善意でもって従うことが醜悪なのは、その批評が担保とする「美学」的評価が、結局は演劇の「美学」価値を自明とするからであり、その程度の趣味をどれほど満足させるか、つまり複数の舞台を観て「美学」的により100点に近いほうを評価するといった、事件を欠いた弛緩語を連ねることで、それが小劇場演劇の(無)意識と量産の不均衡を批評=保護する機能しか果たさないからである。

 であるからして、本稿は上演者の意図を読み取った上で、あっさりと無視する。では、いったい誰のためにこの文章は書き継がれていくのか。それは間違っても「サークル演劇」(=小劇場演劇)関係者の方々のためではないし、また早稲田の「サークル演劇」(=小劇場演劇)の舞台に毎月通う「善意の観客」の方々のためでもない。本稿は、「サークル演劇」を観ているとなんだか観ているこちらまで恥ずかしくなってきて上演中数度舞台から顔をそむけずにはいられず、なぜこんなものが日々量産されてしまうのか見当もつかないあなたに向けて書かれている。早稲田で3万部以上配るらしいこのフリーペーパーの読者の割合からいっておそらくそのような人々は15人に満たないだろうが、もし何かの間違いでそのような方々の手元にふと届き目にとまれば幸いである。いったいそのような緊張感なしにどうして東京演劇批評など書けるのか。


 そう書いて、いささか悲観的な表情をおびすぎてしまった、この初回ゆえの無いものねだりの結びに変えて、今一度つぶやけば、

──それにしても、いったいなぜこれほど詰まらぬものだらけなのか。


『Review−Lution! 1号』(2004年4月)より転載




批評誌クアトロガトス

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