04年3月


私はハムレットでありえた、しかし「アル・ハムレット・サミット」(東京国際芸術祭招待作)


鹿島則一(批評)



 というわけで、私はここに「バブルの塔」の下で観た「アル・ハムレット・サミット」についての考察をまとめる。この上演はクウェート人の演出家スレイマーン・アル・バッサームが英国で英語で上演し後にカイロで上演した作品を、新しくアラビア語と中東の俳優陣によって作り直した「世界初演」である。この舞台はメッセージ性が強く、中東を取り巻く政治的社会的素材をモチーフにしている。私はどういうわけか最終日のチケットにただでありつくことができた、そこでこの舞台のメッセージが何だったのか、どう伝わったのか、考えてみることにした。

 名前のとうり上演は「ハムレット」の翻案である、粗筋も登場人物もシェイクスピアに沿っているが、場所はデンマークから中東の王国へ、時代は中世から現代に移されている。「サミット」にふさわしく舞台上には八の字型に六つの名札の付いたデスクが並び、真ん中にスクリーンがしつらえてある。まず、初めに 「1948〜2004」という字幕の入った男の映像が映る、王の死、それが芝居の開幕になる。役者たちは不器用に洋服を着こなし、民主主義と切迫する王国の危機を語る。 王国は隣国のフォーティンブラスの脅威にさらされ、それが登場人物たちの危機の意識の前提になっている。留学から帰ったハムレットは叔父クローディアス王に疑惑を抱き、クローディアス王達は民主主義をとなえ、現実の策謀と欲望の追求にいそしんでいる。オフィーリアは、ハムレットと同様に西洋の教育を受けて彼に好意を抱き王妃の下品さを嫌っている。国内はなにやら不穏で、ポローニアスはその対処に忙しい。彼らの心に欲望と疑惑を吹き込むのは、彼らの傍らに現れる西洋人の武器商人(英国の俳優)であり彼だけが原作に登場しない。ハムレットはここでもハムレットで、現状に怒り、詩的な言葉でその内面の懐疑と情念を語っている。次第に疑惑を募らせ、イスラムの伝統に惹かれていく彼の振る舞いに、王達は警戒しオフィーリアとの婚礼を進める、2人は同じものを共有するがゆえに接近するが、ハムレットは現状への怒りで心が閉ざされており、原理主義に走り、彼女を「尼寺に送る」。やがて、「ゴンゴーザー王殺し」がアラブ様式で行われ、その場面で真実を認識したクローディアス王は、彼の支えであった「ダラー=ドル・アラーの神」に懺悔する。このシーンでの彼の姿は最も圧倒的である。極めて卑俗で即物的な内容であるがしかし詩的な言葉と服を脱ぎ懺悔するその姿は観ている私に強い衝撃を与えた。彼は全ての真実を知った。彼とハムレットが世代は違っ ても同じ近代人の精神をもつこと、その対立の先に王国の破滅があること、彼らの行動の全てがついに無意味であること。以後の舞台が死者達が影のように蠢いているだけのように私に観えたのも仕方ないと思う。その後、「自爆テロ」の声明の映像を最後にオフィーリアが消える。「道化」ハムレットは父の墓に供えられた花を踏みにじって入って原理主義者に生まれ変わるが、最後に国連からの使者が来た時に同じ認識にいたり、内戦の中に最後の一人として倒れる(文字どおり!)。その後に、ダサい洋服を自然に着こなすフォーティンブラスが入場し、「新しい時代」の始まりを宣言する。しかし、彼は何も認識しておらず、あの武器商人と話している中で舞台は暗転する。なお、原作の科白は一語も使用されない。

 この舞台の特徴はそのメッセージ性と結びついたアイロニーだろう。ハムレットのセリフは異様に詩的であり、音楽はエキゾチックに甘く、衣装も舞台 美術も簡素に美しい。だが、観る人はそれらの美しさがいかに批判的視点と結びつき、徹底してアイロニカルに、中東のイメージをずらしているか、その不自然さに意味を持たせているか気づくべきだ。それはクローディアスの詩的文体での懺悔の衝撃、ハムレットがイスラムの衣装や伝統に着替える時のコスプレ感などに現れる。さらに、マクベスの魔女を思わせる武器商人がでてくるが(彼はただ各人の欲望や猜疑を加速するだけである)、父の亡霊はもう現れず(ロマン主義的)悲劇を構成するための「真実」は示されない。原作における回復されるべき秩序は存在しないことが露になる。それゆえ最後に悲劇を認識し観客に秩序の回復を示すはずのフォーティンブラスが武器商人と共にいることになる。しかも、はじめには舞台の枠組みを作っていた王国の脅威としての彼は最後に登場人物の一人に引き下げられている。クローディアスとハムレットとフォーティンブラスは、最初に認識する者、最後にする者、まだ何もしていない者に位置づけられていた。英国の観客たちはハムレット から「真実」が取り去られたことに驚愕した。つまり彼らからもそれは取り去られた。これが中東からのメッセージだった。

 ここで、同じフェスで上演された「ロメオ+ジュリエット」(スロバキアのヤーン・カンパニー上演)をみてみよう。「新しいヨーロッパ」(byラムズフェルド)の現状がそのまま現れた中途半端な上演は半端なアイロニーを持っているが、一つだけ驚いたことがある。ここでは、対立する両家は和解しないが、その理由は示されない。ところが後で両家の人々がそれぞれチェコ語とスロバキア語のセリフを使っていたことを知り、納得すると同時に驚かされた。意識していれば恐ろしいアイロニーだっただろう。それと同時に、マフィアまがいの両家のボスの一人が「聖ヴァーツラフ」(注1)だったわけだと気づいて失笑した。では「アル・ハムレット・サミット」の最後に登場するのは?(注2)

 驚いたことに気づかない観客が多い。とすれば、いったいなにが伝わったのか? 英国の観客がハムレットを伝統として所有しない人々に気づいたのなら、東京の観客は? もちろんセリフによる伝達はへたくそだった行われた、が、あえて最大のメッセージは伝わらなかったと考えるべきだろう。伝わったこともある、クローディアスのシーンが衝撃的に示す西欧に対する中東の関係、その超えがたい距離とにもかわらずの近代の本質的侵食だろう。だが同時にこのシーンは別のものを覆い隠してもいる。それが クローディアス=ハムレットに対するガートルード=オフィーリアのラインだった。ガートルードこそ西洋近代の中にいないただ一人の登場人物ではないのか。彼女 は中東を積極的に規定する可能性だった。ガートルードがただの不道徳な人物ではないの明らかだ。しかしそれ以上に描きえていたろうか? 劇の構造の大胆な変換はガートルードを描きえてこそ積極的な意味が出てくるはずである。彼女は男性の否定的同一性に回収できない。彼女達を描けなかった事は、男性達の負の循環を絶対化してしまう。さらに、ビン・ラディンの言葉を話すハムレットと名も憶えられない「テロリスト」たちの区別ができるのだ ろうか。つまり「サミット」の問題がでる。そこに大衆の出ることはないが、原作もまたそうである。この上演ではハムレットと現実に二重に排除されるオフィーリアに微かにそれが重ねられるだけである。この上演の男性性は西欧との距離においては日本の観客に同一化を可能にする。しかし、その同一化が幻想に過ぎないことはメッセージが伝わらなかったことに示されていた。では、この「世界初演」が日本で行われたことの意味はなにか? おそらくそれは我々がハムレットで「ありえた」ことを認識することにしかない。この危うい繋がりは私がこの上演を通じて得た最初の認識になる。だが、この危うさに耐えられる「大衆」は日本のどこにいるのだろう。ともあれ私はあの映像の男が死んだのが2004年だということに注意を促すことにしよう。

(新宿パークタワーホール2月12日〜17日)


(注1)ハベル前チェコ大統領。

(注2)個人としてはブッシュ大統領とシャロンイスラエル首相、この劇は合衆国やイスラエルの暴力と欺瞞への直接的告発でもある。


(チケットを手配してくれた荻野哲矢氏、私を上演に無理やり連れて行き、以後もおせっかいに原稿を催促し続けた森下貴史氏、なにより本稿のネタもとになった芸術祭ホームページの劇評家の方々に感謝します。)


『Voice of NANA Ⅱ 第13号』(2004年3月)より転載




批評誌クアトロガトス

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